7月30日(木)トロントに到着。スカボロー泊。  7月31日(金)トロントでカナダらしい店に。 

8月1日(土)ステファニーの湖のほとりのコテージに  8月2日(日)再びコテージ泊。

8月3日(月)トロントに戻る。  8月4日(火)ナイアガラ → トロント

8月5日(水)カナダからメキシコへ。  習慣について  日加ブルーベリーパイ摩擦               

index

index

 まっちゃんと、キルステンとこんなに仲良くなれたのが一番の収穫!といいながら、フランクフルトへ。すぐにトロント行きの飛行機に乗り継ぐ。
 「フランクフルトを13時10分発で、トロントに15時35分に着くということは、2時間25分しかかからないから大西洋横断なんてちょろいじゃん!」と、ナメたことを考えてたが、全然着かない。そこで初めてハンブルグとトロントの間には6時間の時差があることを思い出したのだった。新大陸は遠いのであった。

 定刻からかなり遅れてトロントに到着した上に、入国審査が厳しく並ぶところがややこしい上に、ちょっと油断をした隙に英語を解さないイタリア人の団体の横入り攻撃を受け、順番が後ろになっただけではなく、彼等の英語力のせいで延々と待たされた上に(横入り攻撃と言えば、フランクフルト空港のトイレで「子供がオモラシ寸前なので・・」と見せ掛け、トイレ待ちの列をごぼう抜きにした上に、後の者が入れなくなる程のスカンク(ほんまもんは知らんけど)級の臭いを残して行った、インドか中近東系の強者もいたなあ・・・)、何故かまっちゃんは謎の東洋人だと思われ、「ちょっとこちらへ・・。」(私にしてみれば、一体どこに連れていくねん!)と警備員にチェックされるなど、色々なことが重なって出るまでにさんざん時間がかかり、出て来た時にはまっちゃんのお友達でこれからお世話になる"ちい子"さんの姿はどこにもなく、焦りに焦った。
 まっちゃんが電話を掛けに行っている間にそれらしい人に(私はちい子さんの写真も見たことがないのだった。)、「あの、池端さんですか?」と声を掛けると"I'm not a Japanese!!"といわれるなど、多国籍の人でごった返すトロント空港での人探しはほんとうに大変だったが、何とか見つけることが出来た。結局、私達が出てくるのがあまりに遅く、さすがのお利口な健人君(6か月!!)もむずがりだしたので、りんごジュースを買いに行ったところで行き違いになったということだった。一見落着。
 ちい子さん(以下ちい子)は、ロングヘアーを一つのお下げに束ね、私達(156cm前後)よりさらに小柄で華奢な人で驚いた。何でも、こちらに住んで以来、彼女の家は"民宿池端"状態になっていて、赤ちゃんを連れて何処へでもアテンドする、と、聞いていたので、もっとがっしりした人を想像していたからだ。抱っこ紐で抱っこされている健人君が大きいだけに、とても重そうで気の毒に見える。
 早速空港の売店で切手を買い(ここ、カナダでは海外へはどこへ出してもある程度の重さまでなら葉書も手紙も均一料金だと聞き、びっくり!!さすが移民の国の国際郵便需要の多さか?)、早速機内で書いた手紙を投函し、車で(母は強し!)ちい子宅へ。

 空港から出た瞬間からヨーロッパとは全く違う風景が広がった。道路も広いし、何より建物がみんな新しい。それは、築数十年のものはあるのかも知れないが、「歴史」を感じる、もしくは「歴史からくる落ち着き」を感じるようなものは何一つなかった。

 ちい子夫妻の住むコンドミニアムも「ヒュージ!」で、エレベーターも一機だけではなかったような気がする。いきなりエレベーターで黒人の人の家族と乗り合わせ、そういえば今までの旅で黒人の人を見かけたことはなかったな、と、思った。同じヨーロッパでもパリなどではよく見かけたが、結局植民地に持っていた国の違い、植民地を持っていたかいなかったか、なのだろう・・。
 ヨーロッパのフラットと概念的には同じなのだと思うが、ちい子の住むコンドミニアムは、かなり広かった。日本の新婚夫婦にはなかなか望めないくらい。そして、確かそれでもあまり高くないと言っていたと思う。畳だったかどうかは忘れたが、日本間風の部屋があり、そこには日本に結婚式で帰って来た時に、どこかのアトラクションでちい子が兜をかぶって写っている写真が飾ってあったりして、部屋全体の雰囲気が「日本間」というより「ハリウッドの考える日本間」的だったのが印象的に残った。日系3(?)世になるともう日本のイメージがハリウッドの感覚になってしまうのか・・とか、そして奥さんが生粋の日本の日本人でもそれは覆せないのか・・・という意味で・・・。色々と結婚式などの写真も見せてもらったが、日本で仏式で挙げたもので、日本にずっと住んでいても初めてみるものだったがいい感じだった。
 ちい子は日本では大きな病院で助産婦をしていたので、こちらでもできればもっと英語を勉強して、その資格をとって働きたい、と言っていた。そもそもまっちゃんと同じダムの高校から看護学校に進むというのもよっぽど自分の強い意志がないと出来ないことだと思うし、その看護学校も首席で卒業したと聞いたし、その根性ととっても優しくて頼りになる人、と、聞く、旦那さんの支援があれば絶対いけそうだ。それにしても、ほんとに小柄で華奢ながら、底知れぬパワーを感じる人だ。
 そうこうしているうちにも、職場にいるマークから何度も(毎日のことらしいが)"I love you."を言うため的な、)電話が入る。写真で見るかぎりはどこが"マーク"やねん、というくらい全く"日本人"のマークだが、やはり、そういう行動を見ると、生粋のカナダ人なんだな、と、思う。

 ここ、トロント郊外の住宅地、スカボローは中国系(香港系)の人が多いらしい。そういえば以前叔父の家族が叔父の仕事の関係でトロントに住んでいたときも、住所はスカボローだったような気がするが、ここはそういう関係で他のアジア系の人も住んでいる・・という感じの場所なのだろうか・・・。と、いうわけで、夕食によい時間になったので、近くのおいしい中華料理のお店に連れていってもらう。
 店のオウナーから従業員から何から何まで流暢に英語を喋る中国人の人でびっくりする。ここが郊外型のレストランではなく、ごみごみした場所にあったら、香港かと思うくらい・・・。店に来ていたお客さんも中国系の人が多かったが、白人の人もいた。
 健人君は相変わらずお利口で、お気に入りのふわふわ煎餅さえあげていたらご機嫌にしている。ちい子が、「ここ、カナダでは、子供を連れている時の周りの目がとても温かくって、必ずと言っていいほど、『可愛いわね』とか、『お利口ね』とかいって、微笑みかけてくれるし、とてもやりやすい。」と、言っていたが、ここでも入るなり、みんなニコニコと温かな目でみながら微笑みかけるのは勿論、大概何か声を掛けてくれていた。こんな温かな雰囲気なら、親もあまり気を遣わずに済むし、子供も怖くなってむずがったりしないだろう。

 ただ、ドイツで風邪を引いた上に、時差ボケがあり、何を食べたかも全然覚えていない。帰って寝る場所を教えてもらい、ご主人のマークが帰ってこられたので挨拶して、これから飲んで、語ろう、というお膳立てになっていたのに、「ごめんなさい。寝ます。」といきなり寝てしまった。ほんとうに申し訳なかった。確かこの時、マークは仕事場から「久しぶりの白いご飯だよ!」的な配慮で温かいご飯などを詰めたお弁当的なものを持って帰って来てくれて、まっちゃんは本当に喜んで食べていた様な気がするが、私はお腹がふくれていた上に、そもそも日本以外で別にご飯を食べたいと思わない(と、いう以前に日本にいても別にご飯がなくても生きていけるというヘンなやつなので)方なので、食べられず、これも申し訳なかった。 

 トロントでの一夜が明けた、7月31日(土)。
 今朝も朝からマークはもうシェフとしてお勤めの日本料理レストランに行っていて、私が起きたときにはもういなかった。朝食の時に、こちらでは"ディップ"をつけてではあるが、ブロッコリーやカリフラワーを生でバリバリ(ボリボリ?)食べるのが流行りというか、当たり前で、健人君なんか何もつけずにボリボリ食べるようになった、と、言っていて、まっちゃんも(アメリカ留学時代からか?)それが好きらしいが、私は試しては見たが、あまり好きにはなれなかった。それとは逆に、私の作るスクランブルエッグのバターの量にも「それって、まるで、バター卵!」と、驚かれる。その後、食器洗いをするのに健人君のもの専用のスポンジでお鍋を洗ってしまい、顰蹙を買ってしまった。赤ちゃんってデリケートだったのね・・・。

 今日はカナダらしい物が見られるように、ということで、まず、"Cullen Country Barns"というお店に行った。もちろん健人君連れだ。また、「日本の両親に近況を報告するのはこれが一番だから。」ということで、ちい子はビデオカメラも持ち歩き、時々今の状況の説明のナレーションを入れながら、時折撮っている。たまに「今日は日本から"まる"(まっちゃんの中高の時の仇名)が来ていて、そのお友達の有紀ちゃんも来ています・・」的なナレーションと共に写されると動きがぎこちなくなってしまったり、写真じゃないのに止まってしまったりしてしまった。
 店の方は、とにかく広くて、カントリー調のものが色々と揃っていた。入口を入るとすぐに、かなりの量の、生花・鉢植えのコーナーがあり、「凄い!」と、いうと、「まだまだ序の口」といわれ、そこから左側に行くと、日本の植物園の温室より大きい温室に(先が見えないくらい)凄い量の鉢植えと鉢が並んでいて、溜息しかでなかった。
 が、私自身は土いじりは大嫌いなので、私が顧客になる可能性はないが、その店の中で私が商売人魂(?)から最も興味をそそられたのは園芸用品コーナーだった。広い敷地に色々なシャベルや鍬や鋤や熊手などが並んでいるのだが、プロ仕様のものから奥様向けのものまで色々ある。私の目についたのは中でもセルリアンブルーにオレンジの把手がついたスコップ等々のシリーズ。こんなポップな色の道具があるなら私でさえ土いじりしそうである。これは日本でもイケそうだ!!
 その他にもインテリア用の造花や銅製品のコーナーがあって、充実していたが、まだ荷物を増やしてはいけない私に銅の鍋は買えるわけもなく、そもそもカントリー調は苦手なので、結局ここではちょっと綺麗なレースペーパーとカードとスカボローの絵葉書だけを買った。

 店を出るとすっごい風と雨だったが。メゲずに次の目的地、ショッピングモールに行った。まず、駐車場の広さに驚き、先程の店の駐車場や店の屋根にも少しははためいていたが、ここの駐車場には特に沢山のカナダ国旗が背の高い、立派なポールにはためいているのに驚く。やはり、この旗の下に集まってきた人によって造られた国だからなのだろう。それと、どこかで建国125周年を祝うサインのようなものを見て、もうじき建都1200年を祝おうとしているところから来た私はちょっと興醒めてしまった。
 広い!駐車場からようやくモール自体に辿り着く。店内の広さは入口付近で子供を遊ばせるために、ほんもののポニーや羊などを展示する区画があるほどだ。中で買って食べたミート(ビーフ)パイはなかなか美味しかった。ヘヤーバンドが激安で、二つほど買った。その店を初めとして、中国系の店が多かった。
 あと、食料品売り場に行ったときに気付いたことは、何でも物凄く沢山の量が売ってある割に、種類が少ないことだ。たとえばパン売り場には、すっっっごく沢山のパンが積んであったのだけど、どれも薄目にスライスした食パン、もしくはベーグルだった。豆腐も日本の豆腐の2倍はあるかと思われるものがパックに入って、たっっっくさん売っていたのに驚いたが、その豆腐がみんな同じ種類(少なくとも同じブランドの)ものだったので、またびっくりした。それでこそ、安売りが出来るのだろうけど・・・。これはこういうショッピングモールだけの話で、行くところにいけば多品種を小量ずつ扱っている店もあるのかもしれないが、「カナダらしい」店は、どうやらこういう調子のようで、私には水が合わない!!と、思った。

 一旦コンドミニアムに帰ってから、マークの帰りを待ち、マークも一緒に韓国料理店へ遅めの夕食を食べに行く。韓国料理屋といっても、メニューは和韓折衷という感じで、驚く。こちらでは遅くまで開いている店といえば中国か韓国料理、という感じだそうだ。日本における焼き肉屋と同じか・・・。

 帰って来たら、留守番電話にステファニーからのメッセージが入っていて、明日から友達とコテージに行くので是非一緒に行こう!ということだった。
 返事の電話を入れ、明日からの週末、わざわざ私達の為にベビーシッターを頼んでくれていたちい子夫妻に悪いので、まっちゃんだけでも残って私だけ行こうか、とか色々思案したが、ステファニー達も会えるのは週末しかないし、折角の機会だから、ということで、やはり私もまっちゃんもジョインさせてもらうことにする。マークに代わってもらい、ここへの来方を教えてもらい、明日ここまで迎えに来てもらうことに。再度私と代わった際、今日したことを聞かれ、「ショッピングモールに行った。」と言い、「何を買ったの?」と聞かれ、「レースペーパー」と答えたら笑われた。明日の再会を約束して電話を切る。相変わらずネイティブスピーカーの英語は判りにくいなあ。
 さらにみんなはショッピングモールで買ってきたブロッコリーやカリフラワーや人参(全部生)のディップをつまみに飲んでいたようだが、私はまたいつの間にか寝てしまった。全体として、昨日に引き続き、今日も時差ボケとこれまでの疲れでしんどくて、さらにお天気も悪く、結構寒く、折角ちい子夫妻はこの機会に色々なところへ!と意気込んでくれていたようなのにぐずぐず言って申し訳なかった。ほんとうにすみませんでした。

 8月1日(土)。朝9時にステファニーとボブが迎えに来てくれる。ステファニーは昔の面影がそのままで、昔から大きかったけれど、今は180はある!という長身で、ボブも絶対2メートルはあるという超長身で、二人ともスレンダーではあるのに(あるが故か?)北欧でも感じなかった身長差を感じた。また、二人ともノーメーク(ボブは当たり前か)でエコロジーTシャツに短パンにサンダルで、その辺りもヨーロッパで会った人達と全然違い、とにかく、「ヨーロッパと違う!!」と感じた。

 これからボブの愛車、黒のフォルクスワーゲン・ゴルフ--彼はでかい体を折り曲げるように運転席に入っていった。---でここからかなり離れた--と、いっても広大なカナダの地図で見ると、すぐそこに見えるのだが---途中からは船でしか行けないステファニーのお祖父さんが建てたコテージに向かい、2泊することに。
 車を走らせ、町からでると、どこを見ても畑や野原ばかり。どこを見ても家ばかりの日本とえらい違いだ。京都から滋賀に行くと感じる類の、まだまだ開発のしようのあるポテンシャルを感じた。
 途中でドーナツ屋に入り、休憩する。コーヒーのMの大きさに驚く。
 また、さらに行くと、超殺風景な畑の真ん中に黄色くペイントされたほったて小屋があり、"PIES TARTS BLUE BERRIES"という看板が揚がっていた。(このPIES TARTSというのは、英仏2カ国語併記が義務づけられていることの現れか?)ヨーロッパにいた時はどんな田舎の掘っ建て小屋的なところでもとてもお洒落にしてあってびっくりしていたけれども、これはアルファベットがひょっとすれば日本人の目には"おしゃれ"に映るかもしれないけれど、本質的にはにほんの道路沿いにある蛸焼きやいか焼きの屋台と全然変わらんぞ、と、思っていたら、そこでパイを買うのだという。おいしいのだろうか?!後々このブルーベリーパイが日加摩擦の原因になるのだった。

 さらに車を走らせ、船着き場へ到着。そこで二人の友達ダナとミランダと合流する。私達とステファニーが15年前のキャンプで知り合った仲。ステファニーとボブが彼女と彼。ボブはステファニーより少し年上で企業に勤める弁護士。ダナはボブのロースクールの同級生で同じく弁護士。ミランダはダナのかなり年下(私達より下のはず)の彼女、という間柄だ。ダナは比較的小柄で、ダスティン・ホフマンとか井上順(この二人を一緒にくくるのは無理があるか?)系で、ボブとは凸凹コンビのよう。ミランダも比較的小柄で華奢でキュートな感じだ。ミランダの名前は、後で住所を書いてもらった時にスペルを見ると、成程、と、納得したのだが(日本人の悪いくせか?)、聞いただけではなかなか判らず、何度も言い直してもらって、申し訳なかった。聞いた感じでは、ミランダというより、マレンダに近かった。ヘップバーンさんの発明したスタイルのローマ字がヘボン式だというのも納得できる。大体、英語をカタカナに置き換えるのには凄い無理がある。中国語の英語を漢字に置き換えてしまうのも凄いな、と思うが・・・。まあ、英語圏の人はバッハのことをバックと自分達の普段の発音に置き換えたりしてしまっているし、結局何でも有りなのか・・。 
 これから、ここに停めてある、ステファニー家所有のモーターボートに乗り込む。実は、この時にステファニーに、ところで、私は大学で何を専攻してたのか?と聞かれ、「英文科で英文法を専攻していた。」と答えなければならない時ほど情けないことはなかった・・。いくら日本では読んだり書いたりするのと、聞いたり話したりする能力は別、と、いわれていても、ほんとに私の英会話はブロークンで、ことに文法のことをあまりきっちり考えていると全く話すことが出来なくなるので、意志疎通をするために、文法のことは後回しにして、取り敢えず喋っているというのを自覚しているからだ・・。でも、副専攻はアメリカの女流文学だったといって突っ込まれても困るし・・・、ましてや首席で卒業したなどということは母校の威信に拘わるので、口が裂けても言えなかった。
 全員無事に乗り込んだところで、橋(といっても大したことないが・・)が落ちてびっくり!青空の広がる中、ステファニーが操縦するボートで湖の水を切ってコテージへ。ボートは人と荷物で超満杯だったので、私は落ちないように、荷物番を買ってでた。

 暫く船を走らせた後、湖の中に浮かぶ島に上陸。目の前に目的のコテージがある。岸から少し杉の木の生える斜面を上がったところにそのコテージは建っていた。全部丸太を組み合わせたログハウスではないが、角材で出来た骨組みに、壁になる部分は丸太を渡して造った、という造りになっていて、窓のない一番岸から目立つ壁に"OMPAWAH"の文字と湖で羽ばたいている一羽の鴨の絵が描かれた木の看板が掛かっている。そのオンパワーというのはここがあるオンタリオ州と何かを掛けたステファニーの叔母さんの造語でコテージの名前になっているらしい。また、ここでも結構大きなカナダの旗がドアの横の壁に立てられていた。
 1940年代に立てられたものというが、ある意味での歴史は感じさせるが、しっかり造られているようで、全然大丈夫。平屋でキッチンとかなり広いリビング、ダイニングがあり、ベッドルームは特に独立してはいなかったが、大人6人が余裕で泊れたのは間違いない。確かトイレは別の建物だったと思う。夜は懐中電灯を点けていかなければならなかったような・・。そして、もう一つ別棟があり、そこは物置になっていて、その前に湖に向けてバルコニーが貼り出し、また、そのバルコニーのしたが湖から続く船のガレージになっていた。とにかく、ステファニーのお祖父さんの代からずっとみんなが愛情を持って使い続けているところに来られるなんて感激だ。

 荷物を降ろし、お天気があまりにも良かったので、まず、水着に着替える事に。今回は皆、クラシカルな水着だったので安心する。上に着るものを引っ掛け、お昼ご飯を作るためにステファニーが持ってきていたベーグルパンとクリームチーズ、スモークサーモン、サンドイッチの具用ターキー、チーズ、レタス、マヨネーズ、ケチャップ等を各自適当にはさんでサンドイッチにして、ガレージの屋根兼バルコニーになっているところへ移動して、日光浴をしつつ、ビールを飲み、サンドイッチやスナックを食べ、そこから湖に飛び込み泳ぎたい人は泳ぎ、本を持ってきた人は本を読み、という具合にうだうだ過ごす。
 ステファニーはジャーナリズムを専攻して大学を卒業した後、暫く記者をしていたが、環境問題に興味を持ち、またそれを勉強するため大学に入り直し、今学生の身分で研修生として「虎穴に入らずんば虎児を得ず」の心境で電力会社に勤めているというエコロジストだとは聞いていたが、私が誤って(といちいち言わなければならないのもいかがなものか・・・)、下の湖にレタスを落とした時、「ユキ!あなたはレタスで湖を汚染したわね!」と、笑いながらではあるが、全くの洒落とはいえない口調で言って、湖に飛び込んでレタスを拾うのを見た時には「ひゃあ!」と、思った。レタスだったらプラスチックじゃないし、放っておいても何かの餌になるか、ならないまでも、自然に分解されると思うのですけど・・・。
 ステファニーは77年のキャンプの頃から泳ぎが得意!というイメージがあったが、その後高校時代まで競泳の選手だったということで、今でも大胆な泳ぎ、飛び込みを見せてくれて、ここまで行く海行く海で欲求不満気味だった、こちらもマスターズ大会に出たいと思っているくらい河童のまっちゃんは久々に河童の友達を得て、見失って心配するくらい泳ぎたおしていた。
 また、ここで話している時に、キャンプの頃の話が出て、「ステファニーは子供会議の議長をしていて。」と、私が言うと、「ええっ!私、そんなことしてたっけ!?」というくらい、キャンプはまあ楽しかったくらいの印象しかないようで、温度差を感じた。それだけ温度差はあっても私のことは覚えていてくれたということなのか・・・?とにかく「縁」なのだろうなあ・・・。

 まっちゃんはひたすら泳ぎ、私はやはりベストな体調とはいい難いのでひたすらうだうだして、中に入り、コーヒーをいただくことに。そこで、ダナに"Do you know blueberry pie?"と、聞かれ、「日本にもあるし、さっき来るときに買ってたわよ。」と言いつつも、悪気はないのだろうけれど、《この弁護士という知的水準が高いはずの人が私達をひょっとしたらブルーベリーパイも知らない極東の未界人だと思ってる?!》と思うと超むかついた。百歩譲ってブルーベリーパイが日本の花見団子のようなものだと思って・・・いや、世界的に有名なものと自分の国にしかないものの区別くらいつくはず。5歳の子供なら許す。が、大人の弁護士のこの発言はやっぱり許せないのであった・・。また、その席で私達のこれまでの旅の話になり、ステファニーが、そういえば・・という感じで、「確か、ルーマニアにも行ったわよね。Wasn't it a kind of strange?(何だか妙なところじゃなかった?」と聞かれ、《今度はそう来るか。ジャーナリズムを専攻していたとかいいながらCNNなんかのメディアが都合のいいように流す情報を鵜呑みにしてステレオタイプな偏見を持っている奴め・・・。どうやったらそれを覆せるか・・・》と、思った矢先、まっちゃんが、「トイレの紙が分厚くって参ったわあ。」それを聞いたダナが「わっはっは。」という流れになってしまい、確かにそれはそうなんだけど、私の大好きな人達がいる国への偏見を助長してどうする!?それに、「エコロジー」の観点からいくとトイレットペーパーなんか純パルプ100パーセントの2枚重ねの模様入りなんかを使ってる方がよっぽど問題なんとちゃうん?と、思ったが「でも、みんなお金はなくっても楽しみ方を知っているし、お料理もとっても美味しかった。」と、いうにとどめた。

 その後みんな思い思いのことをしていて、私達は葉書を書いたり横になったりしているうちに夕食の時間に。今日のディナーはローストチキンと野菜だ。今日はこの人数で大きめのものではあるが、一羽。昼もそんなに食べていないし、みんな意外と小食で驚く。
 大きな木のダイニングテーブルに何か植物の繊維でざっくりと編んだランチョンマットを敷き、ディナー皿を置き、ワインとワイングラスを並べて木の枝そのままのような燭台のろうそくに明かりを点けて、ディナーの始まりだ。先程ろうそくに・・と書いたのが、実はガスの明かりだと聞き、びっくりする。ここは電気が通っていないために照明はみんなプロパンガスで点くようになっている。そういえば"ガス灯"という言葉は聞いたことがあるが、それって街灯のことだったし、こんないかにも電球のようなところにガスで明かりが点くなんて驚きだ。気のせいか電気よりも優しい光なような気がする。白熱球をもっとデリケートにした感じだ。
 また、綺麗にペイントが施されたいかにも磁器という感じのお皿も薄くて上質なものに見えるワイングラスも実はプラスチック製で、アウトドアライフの歴史の長さが伺える。(けど、これはずっとここに常備されているものなのだが・・破損すると誰がどのように補充するのかが面倒ということか、来た人が気を遣わなくていいような配慮か・・・。)でも、その後の後片付けの場で、ステファニーもミランダも普通の合成洗剤を遣っているにも拘わらず、それをほとんど水で流さず、ペーパータオルで拭いているところを目撃。レタスで湖を汚すのはいけなくって、合成洗剤で湖を汚す、プラス、それをよく流さず人間のからだがやられるのはオーケーなの?と、今度はまっちゃんともども《徹底するなら徹底してもらわな・・》と、思ってしまった。

 ディナーの後、カナディアンのみんなはポーカーなどをしていたようだが、私達は彼等の英語の会話をBGMに、さっさと寝てしまう。正直言って、ポーカーのやり方があまり判らないということもあったが、それ以上にまだ疲れていた。そういえば、これまでこちらに来て沢山の夜を過ごしてきたけれど、トランプやゲームの類が登場したことはなかったなあ・・・。今までは会話が最高のご馳走という感じでずっと来たけれど・・。確かに今回は彼等の休暇に私達が入らせてもらっているわけで、これが日頃ストレスフルな生活を送っている彼等の休日の過ごし方なのだろうけれど・・・。そして、彼等4人はいつでもよく会う代わり映えのしない面々で、もう特に話すことなどないのかも知れないけれども・・・。一見フランクなようだけれど、深刻な人間関係は避け(?)、カードゲームでお茶を濁す(?)的なカナダ(アメリカも?)的付き合いはつまんないなあ、と、思ってしまった。それに、英語も一番判りにくいし・・・。自分達こそがネイティブスピーカーなんだから、判らないなら悪いのはあなた達の方、って感じで、「人に判ってもらおう。」「人のことを判ろう。」っていう気がないのよねえ。カナダではフランス系住民との関係でどんな商品(例えばミルクのパック)一つとっても英仏両国語が併記されていて常にフランス語も目に触れているはずなのに、当然ある程度判る、という答えを期待して、「・・併記されてるけど、フランス語も判るの?」と聞いたらこの知的な人達のうち辛うじてボブが授業か何かでとって、少し判るくらい・・とは。まあ、もちろんフランス系の人達は英語を拒否しているからこそこういうこと(併記)になっているとは思うけれども、こんなに近い言語でちょっとかじれば私達よりはずっと簡単にできるようになるはずなのに、世界中で通じる「べき」(と、彼等は往々にして思っているようだ。)英語のネイティブ・スピーカーは他の言語を学ぶ必要がない!とでも思っている(それも無意識に)かのような態度に「あんたらも『世界共通語』としての英語で話せ!カナダ弁で話すな!」と、思ってしまった。結局疲れて寝に行ったというより、その辺に無力感を感じての泣き寝入り・・の方が正しかったか・・・。

 8月2日(日)。コテージに朝が来たが、今日は朝から天気が悪かった。台所の窓から外を見ると、何やらぶら下がっているものが見える。「何これ?」と聞くと、"It's a famous hammingbird feeder!!"という答えが。英文科の授業に出てくる詩などでアメリカ方面ではハチドリは人気者とは聞いていたが、ここでお目に掛かれるかも知れないとは!透明のプラスチックの筒の下の部分に赤いプラスチックでできた四方を向く止まり木とラッパのような形で嘴を入れられる部分がくっついていて、プラスチックの筒に砂糖水を入れておいて、ハミングバードが吸いに来るのを見る仕掛けだ。滞在中に一度でも見られれば、と、思う。

 朝食の後、外に出られないので仕方なくヤッツィーというゲームやword duelというゲームをして一しきり盛り上がったら、一瞬の晴れ間があったので、それを見逃さず、折角ここまで来たのに何も見ずに帰るのは勿体ないということで、ボートで湖を一周しに行くことに。晴れ間といっても、まだ肌寒く、時折小雨がパラついたりするので私は長袖Tシャツにシャツを着て、ヨットパーカーを着て、という今持ってるものを全て重ね着した上に、ステファニーが船に積んでいたちょっと破れてるけどこの際!の、レインコートを借り、時には杢グレーのパーカーのフードをかぶり、ねずみ男の様になってるだろう・・と思いつつも背に腹は変えられない状態だった。何と言ってもボートはオープンなので走る度に寒さが増すのだ。
 走行中、ステファニーが"Look! That's the ビーヴアーデアーム!"というので何かと思ってみるが、特に何か判らず、暫く考えて、あっそうか、beaver dam=ビーバーのダムのことか・・、えっ!?この辺って子供の頃に憧れた、というか、可愛いので一度本物を見たいと思っていたビーバーの生息地なの?と、驚いた。結局、そこは、よく見ればそうかな・・・レベルのところで、今はもう使われていないようだった。
 その後お天気もよくなったので、一旦見晴らしのいい丘があるところに上陸し、てっぺんまで登り、湖を見下ろしてみる。ここからでも全貌は見渡せないほど広い湖なのに、ここ、カナダでは取るに足らない大きさの何て事のない湖だというからその自然の広大さには圧倒される。
 丘から降りるときに、何とビーバーマークの標識があり、それに沿って行ったら、正真正銘の大きなビーバーダムを見つけることができた。ほんとうに沢山の木の枝を積んで造ってある。だが、残念ながらビーバーそのものを見ることはできなかった。

 その後、オンパワーの近くの別のコテージにステファニーのコテージのご近所友達がいるということで、そこにいく。彼等家族(夫妻と子供一人)はアメリカのニューヨーク州から着た人達で、ご主人はボブと同じ年格好で、彼もまた弁護士だそうだ。そのご主人は、ダナとボブの中間くらいの大きさで、短めに刈ったプラチナではない金髪に青い目で、もろ、ボストンフレームの眼鏡を掛け、フェアアイルの編み込みのセーターを着て、多分本物のアイビーリーガーだったのだろうという、正にアイビーのお手本のような格好で、ロッキングチェアーに腰掛けたりなんかしていた。そこで、男の人達は大統領選の行方を、女の人達は2歳の可愛い女の子を交えて内輪の話をしていて、ついつい「まるで映画の一場面のよう。」と、傍観者のようになってしまった。でも、これって日頃ハリウッド映画に毒され(は、いい過ぎか。)ているからなのか・・・。彼等の飼い犬の大きめの栗色の垂れ耳のちょっと巻毛の犬もお上品な感じで可愛かった。水が好きなのか、水から冷たい湖に入って震えているくせになかなか出てこようとしなかった。

 映画のようなコテージから再びオンパワーに戻り、夕食の準備の時間になる。今日のメニューはボブとステファニー競作のチーズの種類も具も少し違うピザだ。どちらも美味しかったが、私は僅差でボブの方に軍配を挙げたいかな・・と、思った。食後には例のブルーベリーパイをいただくことになった。ちなみにブルーベリーパイの味の方は可もなく不可もなく。全く印象に残らないものだった。
 夜は、またまた彼等がカードに興じるのを尻目にさっさと寝てしまった。

 8月3日(月)。昨日とうって変わって、今日は好天に恵まれた。朝、何気なく台所の窓から外を見ると、あの、ハミングバード・フィーダーに、ハチドリが来ているのを見ることができた。確かに蜂でも飛んでいるようにせわしく羽根を動かしていたが、とても可愛らしく、詩に詠みたくなる気持ちがわかった。
 コテージでの休日は、これでおしまい。これから荷物をまとめてトロント市内に戻らなければならない。次に来た人が気持ち良く過ごせるように簡単に掃除や整頓をし、いよいよ昔の百科事典のように立派なゲストブックに記帳するときはさすがに緊張した。読んでもらえるように英語と、折角なので、日本語で書いた。
 最後にステファニーが船の用意をする間、桟橋付近で暫く日向ぼっこして、今となっては懐かしいコテージよ、さようなら。
 最初に船に乗り込んだところからトロントに帰る道に、帰りの人用のゴミ捨て場があり、空きビンのリサイクルが徹底しているのにびっくりした。ダナとミランダとは後でマークの店"SASAYA"で夕食を一緒にすることにして、ここで別れる。

 カナダは今日も休日ということで、帰りの道は、帰省客(?)で大変混んでいた。週末には郊外のコテージで過ごすということがそれ程メジャーなようだ。途中アイスクリーム屋に寄り、スカボロ・ブラフ・ブラファーズ・パークを通過し、ボブとステファニーの家に立ち寄る。
 来る前に、「そういえば家にももう枯れかけているけど『ボンザイ』がある。」と、ステファニーが言っていたので何だろう?と、思ったが、それは大きな世界を小さな世界に表した盆栽というより、ただの小さな松の鉢植えだった。ドイツでのジャパニーズ・ツリーよろしく、こちらでも松の鉢植え=ボンザイということで、結構流行っているらしかった。
 ステファニー達の家は割合便利な場所にあり、少し前庭やテラスもあり、なかなかCOZYな感じの家だった。スカボローとこの辺を比べれば、この辺の方が大分古くからある町のようだ。ステファニーに自分の家族の写真などを見せてもらう。お父さんは数年前に他界されていが、お母さんはお元気で、3姉妹の末っ子であるステファニーをとても気に掛けていること。お父さんが判事をされていた関係で法曹関係の人と知り合うことが多かったこと。お父さんが亡くなられてから急に経済的に苦しくなったりすることもなかったこと、など教えてもらった。ボブはポーランド系の移民の子孫であること。でも、ポーランド語は殆ど判らないこと。日頃ボブは仕事が忙しく、家でも仕事をしていることが多く、睡眠時間もとても少ないらしいこと。などなども聞いた。
 ここで荷物を降ろし、ステファニー達が"SASAYA"に行く為に着替えたので、私達も着替えさせてもらう。ここから"SASAYA"は比較的近いようだが、彼等はスシを食べたことはあるものの、日本料理屋に行くのは初めてのようだった。

 "SASAYA"に行き、ダナとミランダ、そして、ちー子と健人君と合流する。"SASAYA"は、結構広く、テーブルがそれぞれ障子風のパーテーションで仕切られていて、店の格で云えば、居酒屋をちょっと豪華にしたくらいの感じだったので、カウンターの中に居るマークの格好も紺色の身頃に白地に紺で亀甲模様かなんかが入った襟の法被風のものだった。メニュー的にも寿司に天ぷらに揚げ出し豆腐的なものに・・という感じで、白人系(?)カナダ人の友人達は初めて使う箸や初めて食べるメニューを面白がったりしながらも、また来ることはないかも・・という感じだった。
 明日から仕事のステファニー一行と別れ、マークの仕事がはねるのを待つことに。その頃、マークの友達で同じく日系人でお酒のディーラーをしているマイクも来た。マイクの名字はなんとコヤタ!!それって、もとは小弥太か?だったらそれはもともと名字だったのか?いずれにせよ、時々日系人の人の名字を聞くと、とても時代劇がかったものを耳にすることがあり、それは何故だろうか?と、思う。また、以前京都のYMCAの英会話教室でクラスを決めるためのインタヴューを担当した日系人の男の先生を見た時にも感じたのだが、マイク(マークはそうでもないのだけれども・・)やその先生は、今の日本に住んでいる日本人より、より、ハリウッド映画などでカリカチュアライズされた東洋人(日本人)に近いのは何故なのだろう?敢えて異国の地に住みながらも同じ系統の民族と婚姻して「血」を残そうとする、その魂がそうさせているのだろうか?それに比べると、日系アメリカ人のニュースキャスターなど、女性の場合、違う意味で違いを感じる。「化粧」という、それぞれの社会において求められる女性像もしくは、それぞれの社会における流行に合わせてする「装い」をするからか、もっと白人系カナダ人に近いように思う(ここで日系カナダ人女性を見ることはなかったが)。私自身、シカゴのデパートのシャネルの化粧品コーナーで化粧をしてもらって、日本のそれでやってもらう顔と全く違う顔になったことがあるので、ほぼ断言できる。彼等(日系カナダ人男性)の言動は当たり前だけどやはりカナダ人なんだ、と、思う位、ほんとにネーティブなカナダ人な割に、彼等のルックスはどちらかといえば「往年の」日本人だ。その点女性は見るからに日系「○○人」だと思え、彼女らが日本語が話せないと知っても別に驚きはしない。この差は何なのだろう。やはり女性の方がフレキシビリティーがあるということか・・・。全ての日系人を見たわけではないので何ともいえないが、日本で増殖中のジャニーズ系の男の子は日本でのニーズによって出現しているのだと思うから、それ的な「日系」人男性は、きっとどこを探してもいないと思う。
 その後、マイクもマークの家に来て、みんなでテレビを見ながらお酒を飲んでいたのだが、またまた申し訳ないながら、私だけ早く寝てしまった・・・。

 8月4日(火)。今日は実質的にトロント最後の日、ということで、マークがわざわざ休みをとって、トロントに来たからには絶対見せたい、と言ってくれていたナイアガラの滝と、トロントの夜景が一望できる島に連れていってくれることになった。

 ナイアガラに向かう国道沿いには、この間のブルーベリーパイの掘っ建て小屋を大きくして花の鉢植えをたくさん置いて、もっと愛想よくしたようなアイスクリームやりんご、洋梨などその辺で取れた果物を売る店があり、その一つに立ち寄り、アイスクリームを買う。まずまずのおいしさ。

 また、途中で植民地時代のアッパーカナダの首府だったことから19世紀のイギリスの雰囲気を残しているといわれる"Niagara-on-the-lake"の町に立ち寄る。
 ここは、そういう「古き佳き」時代の雰囲気を観光のために生かしているテーマパークのような町で、舗道に植えられた街路樹の下がびっしりと色とりどりに小さな花が咲く花壇になっていて、その周りをさらに芝生が囲う、という凝りようで、お土産物屋さんが林立していた。
 もう暫く行くと、ちい子達がナイアガラに来るときには必ず立ち寄ると言っていた、ナイアガラ・パークの花時計があった。花時計としては世界最大級のものだということだった。花時計が綺麗だったことはさることながら、公衆トイレがきれいだったのと、ロンドン(は行ったことないけど・・)っぽい2階建ての観光バスが通っていたのが印象的だった。
その近くにある、クリスマス・イン・ザ・ガーデンという名の年中クリスマスグッズのみを扱っているお店に行く(そういえば代官山のこういう店は中学、高校生の頃のお気に入りだったなあ・・)。オーナメントの種類の多さにびっくりし、日本で"La Neige"でツリーを飾るときに相応しい、とても美しい雪の結晶型のオーナメントと、絵葉書を買った。この店も実はナイアガラ・パークの一部だったようで、さらに行くと、また美しい花壇のある庭園が出現した。薔薇がとくに美しかった。この公園自体がナイアガラ園芸学校の実習花壇らしい。

 さらにナイアガラの滝に近づくと、なにやらみんなが「スパニッシュ・エアロ・カー」という乗り物に行列を作っていたので、私達もひょっとしてここからナイアガラの滝が見えるのか?と、並んでみる。長い時間を掛けて待ったわりに、乗ってみると別にナイアガラの滝が見えるわけではなかった。確かに、川が雄大な緑の山の中を流れているところは見えたのだが・・・。一体何のための行列だったのか・・・?これは初挑戦だったちい子達共々ちょっと肩透かしをくらったので、さっさと、2年前にこちらに来たばかりで、その間に妊娠も出産も経験しているちい子が、もう10回以上は来ていて(そういえばトロントに5年ほど住んでいた叔父の場合、150回くらい来た、と、行っていた。)観覧スポットはばっちり!押さえているというナイアガラの滝そのものへ急ぐ。

 いよいよナイアガラの滝への入口へ。ここも花壇が整備され、花で埋め尽くされている。ここまでアイスクリーム以外何も食べていなかったので、腹ごしらえをしようと中に入ろうとした途端、ものすごい雨が降って来て、しばらく雨宿りをしたらぱっと止んだ。
 その瞬間、ナイアガラの滝に、滝の大きさほどある大きな虹が架かったのだ!!これはベテランのちい子も初体験。ものすごく感動的な光景だった。ただ、空にはまだ黒雲もいっぱいあったので、撮影ポイントを熟知しているちい子夫妻の「ここまで来ると欄干が低くなる!」等のてきぱきとした指示にしたがって、久しぶりにリバーサルフィルムが入った一眼レフの出番になった。
 滝の向こう側がアメリカ!というのがすごい。(でも、ヨーロッパの国境と違って、アメリカとカナダの違いって、一体何なんだろう?トロント・ブルージェイズはアメリカのメジャーリーグの一チームのようだし、元になっているのも同じ民族のはず。仲もよさそうだけれども・・・。来る前に、オクラホマ出身のアメリカ人の英語の先生に「どう違うの?」と、聞いたら、"・・・Anyway, they are so good!「うーん、何て言ったらいいのかしら・・・。とにかく、彼らはとてもいい人達なのよ。」"と、いう判ったような判らないような返事が返ってきたりしていたのだが・・・。)また、滝壷のしぶきのはね返りっぷりもすごかった。撮影ポイントから、滝壷に向かう"MAIDof The MistII号"が見える。これや、昔、叔父の所へ行った従妹達の写真で見た、黄色のレインコートや長靴を借りて滝の裏側へ周りに行く、"Cave of theWindsTrip"にしても、並んでいる人が多すぎて、今回は断念した。その後、やはり黒雲のせいで、天気が崩れたので、一瞬の晴れ間に起こった幸運なアクシデントに感謝して、大満足で中に入り、ファーストフードを食べた。さきほどの幸運の余韻で、この大味は許せた。

 雨も止み、今度は夜景に移り変わるダウンタウンを見るために夕闇が迫る前に急いでトロントへ戻る。ダウンタウンは一部、小ニューヨーク的な高層ビル群が立ち並んでいるかと思うと、路面電車も活躍しているなど、なかなか趣がある。シンボルになるのは、京都タワーをもっと全体に細く長く(高く)尖らせたようなCNタワーだ。

 車を置いて、船着き場まで歩く。歩行者用信号が「進め!」が下の段で、(白熱球の)白い色をした、日本のそれと同じく、大股で歩く人。「止まれ!」が上の段で赤色で制止するてのひらの絵なのがとても気に入った。とても判りやすいし、ユーモアがあると思う。
 私がその信号の写真など、要らない(とも思わないんだけど・・・)写真を撮っていたせいで、トロント島行の船に乗り遅れて、15分待たないと行けなくなり、船に乗り込むまでに夜景が始まってしまわないかが心配になる。
15分待ち、幸いまだ暮れかからないうちに乗船でき、ほっとする。船の床は油引きされた木で、スチール製のネットだけで仕切られた船室の側面にはびっしりとニスで艶出しされた木のベンチが並んでいて、何となく懐かしい雰囲気を漂わせていた。しばらく進むと、後方に夕暮れのトロント市街が見え、少し黒雲が灰色に垂れ込めていたのが却って、グレーとオレンジのコントラストを生み、海(湖?)も同じような色合いでブルーグレーにオレンジがきらきらと光って、なかなか美しかった。
 船は一直線にトロント島につき、私達が乗ってきた船は、すぐに「CITY」と、看板を掛け変えて、待っていた乗客を乗せ、ダウンタウンに引き返す。船から降りてすぐ右手の方にはこの辺の名物らしいがちょうがたくさん放し飼いにされていて、日本の鳩のように、お客さんからもらった餌をついばんでいた。
夜景の見える、レストラン・バーでビールをいただくことに。ここのバルコニーの浜側の柱には、上の部分にロープが張り巡らされていて、そこに緑、黄色、オレンジ、といった色の提灯(日本のものと少し違うが)がぶら下げられていて、日本のビヤガーデンのようだった(日本のビヤガーデンの提灯のルーツはこれだったのか?)カナダでは、ここで飲んだ"何とか(ラバットだっけ・・)ブルー"と"モルソン・ドライ"がビールの2大銘柄らしいが、私もまっちゃんも赤が目印のモルソン・ドライ派だった。
 健人君は、居ることも忘れるくらいず〜っとお利口さんで、ちい子は華奢な体で、ナイアガラからここまでずっと、要所要所でビデオを撮ることを欠かさなかった。
 静かに飲んでいるうちに、ダウンタウンのオレンジと灰色のコントラストはゆっくりとさらにコントラストを増し、最後にビル
群の窓という窓に明かりが点って、ビルの影が水面に映って、クライマックスに達した。見せたいと思ってくれていたのはこれだったのか!!という感じ。

 この後、またダウンタウンに戻って、店の雰囲気も可愛らしくて子供連れでも大丈夫なところということで、"the old spaghetti factory"という店に連れていってもらった。その店の外壁一杯に深いブルー地にカラフルな色でメリーゴーランドなど遊園地にあるものと一緒に赤と白の格子模様のクロスの掛かったテーブルの上にスパゲティーや、パンや、ワインが置かれ、スタイリッシュな女の人がそれを食べていて、その横にマカロニで作ったようなロゴで金の縁取りに赤地に白く店の名前が入り、その上を天使が飛び、太陽が微笑んでいる、という絵が掛かれていた。これを見ただけでも味で勝負というよりはアミューズメント性で勝負という姿勢が見て取れたが、実際、マグカップやお皿などのオリジナルグッズが可愛かったのが印象的だった。
 帰る途中に港に停泊していた船のイルミネーションが綺麗だった。

 この夜もまた、まっちゃんは遅くまで話し込んでいたようだが私はまたしても早く寝てしまったのだった・・・。

 8月5日(水)。今日はいよいよカナダを発ち、メキシコへ向かう日だ。
 初め、飛行機の便が19時45分発と遅いので、ステファニーと会社の近くでランチでもしようか、と言ってもいたのだが、結局一度市内に行き、戻って空港に行くのは大変だということで、ぎりぎりまでこちらにお邪魔させてもらうことに決めた。
 時間があったので、色々と話すこともでき、その中で、「何故、私はそんなに渋い(かっこいい意味のシブいではなく、シブチンの意味で)のか。と、不思議がっていた。」と、指摘され、ここでお世話になっていながら、そもそも買い物の際にビール代は私が・・・と、言ったことから、買い物のお金の精算をする時に、きっちり自分の分しか出さなかったことや、駐車場代その他を「割り勘に」と、言ったことに信じられない思いをされていたことを知り、それまでいつも日本で友達同志では一円単位まで割り勘にすることが当たり前だったり、これまでヨーロッパにいた時に、友達、の気安さから明らかに所得の水準が違い過ぎる国は別として、その辺のことをお世話になるばかりでも全然気に掛けていなかったため、ここは友達の友達でしかも赤ちゃんまでいはるところだったのに・・・と、これまでの態度をほんとうに反省した。特にあんなに心の広いマークにまで不愉快な思いをさせてしまっていたとは・・。
 これまでの態度を・・で、思い出したけれども、ここ、カナダでは基本的に部屋に鍵はなく、閉まっていたら、在室。少しあけてあったら不在。という意味なのだそうだ。まっちゃんはアメリカ留学時代のホームステイ先でもそうだったそうで、そのシステムに馴れていたのだが、私ときたら・・・。ある日何げにトイレに行こうと思い、ふとドアを開けたら、そこに・・・まだ彼女で良かった・・・という人がいて・・本当に申し訳なかったことがある。在室だと鍵が掛かるいう頭でいたもので・・・・。そういえばドイツでは私達がキルステンのご両親宅で元のキルステンの部屋を使わせてもらっていた時に在室時にドアをぴちっと閉めていたら、あとで、こちらでは在室ならば怪しいことはしていない、という意味で少しドアを開けておくのが礼儀なので、私達が閉めていて、まさかとは思ったけど、一体何をしているのか?と、思ったりもしたのよ、と、言われた。また、ポーランドのクリストフのフラットでは多分ドイツと同じ意味でクリストフが常に少し自分の部屋のドアを開けていて、別に変なことをしたはった訳ではないが、私達がお手洗に行ったりするのに廊下を通る度に何となく見るつもりはなくてもクリストフの部屋の様子が目に入るのが気になったことがあったのだが、ドイツのそれを聞くと、そういうことだったのか、と、納得しつつも、逆にドアを閉めていた私達は怪しかったのだろうか?でも女性だし・・。と、思ったのだった。こういうことって、自分達が馴れていることが当たり前だと思ってしまいがちなので、是非、ホームステイの心得的に国別の習慣をまとめたものが欲しいところだと思った。
 また、different cultureといえば、多分今でも日本では赤ちゃんが小さいうちは、特に寝るときは夫婦の部屋に赤ちゃんが一緒に寝るケース(例えベッドは違っても)が多いと思うのだが、こちらでは6か月の赤ちゃんでも、と、いうより生まれてすぐから別の寝室に寝るのが当たり前のようだ。その代わり、空腹で泣いたり異変があったりしたらすぐ判るように両方の部屋に設置型トランシーバー的なモニターがあって、それで何かあったら行くような仕組みになっているらしい。健人君の場合、よく食べて、よく寝て、朝も仮にちい子より早く起きていても泣き叫ぶことなく一人で機嫌よくしていておきて見に行ったらニコニコということが殆どらしく、この時期にしてかなり楽なようだ。ご主人もほんとうに大事にしてくれているみたいだし・・・。結婚するならこのパターンが理想かな、と、思った。
 そうそう、ネーティブ・スピーカーの英語が判りにくいとこぼしていたが、マークの英語は違った、と、書いておかなくては。何度も言うように、彼も生粋のネーティブスピーカーなのだが、彼の英語は判りやすかった。そして、それは、やはり私達にも判りやすいように、という配慮があるからだと思う。やはり思いやりなくしては相互理解は有り得ないのだ。また、私は調子の悪さから、みんなが飲んで話している時も、大体二足くらい先に寝ていたのだが、その短い参加時間に、今回会った人の中で唯一の国際結婚カップルで、しかもキャンプには参加していないということで、全くニュートラルな立場のちい子夫妻に、マリウスとできれば結婚したいと思っているということを、初めて打ち明け、応援してもらえたのだった。

 そんなこんなで、ヨーロッパ旅行での疲れが取れず、時差ボケも有り、体調が今いちの上に、何となく日系人社会(自分がいざ移民する立場になったらそうならざるを得ないのは判るのだが、異国にまできてわざわざ元の国の人同志固まるという現象。)にも違和感を感じ、ネーティブ英語スピーカーにも違和感を感じ・・、というように、移民で構成されたカナダ全体に何となく違和感を感じつつ、トロントを後にすることになった。この印象がほんとうに正しいものか体調などがネガティブだったからか、いつか再検証したいような気がした。日系人の一世の人がどういう思いでカナダに渡ったのか。カナダとアメリカはどう違うのか。そこのところもきちんと学習したいと思う。

 と、話がそれたが、色々と話をしながら時間を過ごし、余裕を持ってトロント空港へ出発。例によって、健人君をベビーシートに乗せてちい子の運転で行く。途中少し迷いながらも早めに辿り着くことができ、一緒にカフェテリアでクロックムッシューにビールなどをいただき、ほんとうにご苦労さま!のちい子と健人君親子と別れる。今度会えることがあれば名誉挽回と行きたいところだ。

 カナダからの出国手続きは入国手続きと比べれば当たり前なのだろうが、ずっと簡単だった。19:45発のカナダ航空の108便で、一路メキシコシティーへ向かう。アメリカ大陸は広いので、メキシコに到着するのは22:10。時差も一時間あるので、しっかり4時間10分掛かる。途中機内食は出たが、全てにおいて、カナダ航空は期待したほどよくなかったので、その4時間10分は、結構苦痛だった。

 ともあれ、ほぼ定刻通りにメキシコ・シティーに到着した。メキシコ空港の雰囲気はギリシャのそれに似たような感じで、結構軍服を来た人が警備をしていたり、物々しい雰囲気があるうえに、本当に人が一杯でごった返していた。特にオリンピックから帰国する選手達もたくさんいて、とにかく物凄い混みっぷりだった。そんな中、カルロス夫妻を見つけるのは至難の技でもあったが、何とか彼らを見つけだせ、カルロスのご両親のお宅に泊めさせてもらうことになった。