7月4日(土)ウイーン到着。ウリ宅へ

7月5日(日)。ウイーン市街散策。オットー・ワグナー建築探訪。

7月6日(月)ギリシャへ出発。

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 飛行機の中は、相変わらず私達以外は地元のビジネス客ばかりだった。こんなに小さい飛行機でも一応ビジネスとエコノミーの差はあるようで、ビジネスの客が前の方に乗り、カーテンで仕切られて、エコノミー、といった具合だった。15年前、初めてシャルル・ド・ゴール空港からオーストリア航空でウイーンにフライトした時も、そのカナッペのおいしさに感動したものだが、この1時間足らずのフライトでもやはりカナッペは登場し、そうなると、豪華な朝食を取った後とはいえ、やっぱり今でもおいしいかどうか確認せずにいられないのが悲しい(さが) 。試してみると・・・、やっぱりおいしかった。
 プロペラ機にもすっかり慣れ、無事到着。ウイーン。15年前に初めて滞在したヨーロッパの街。今までは、引率してくれる人と一緒だったけれど、今回、こうして自分達だけで行動することになるとは何やら感慨深い。それに、今はちょうど空港が改装工事中みたいで、なにやら様子が違い、さらに緊張する。ドイツでの教訓があるので、今回は下調べをして、バスでシティー・エアー・ターミナルまで行き、そこからタクシーで「Hotel de France」に行くことに。

 「Hotel de France」は、今回ホームステイの当てがないため予め自分で手配した3つのホテルのうちの一つであるが、唯一特別の思い入れのあるホテルだ。と、いうのは、15年前にウイーンで泊ったホテルだからだ。そしてまた、その時はたまたま「ブラウアー・サロン(青の間)」という、ドアを入ってすぐの左手に、中のバスタブは大理石製のバスルームの入り口があり、それに続いて鏡張りのクローゼット付きの廊下が続き、廊下から20畳はあるかと思われる部屋の奥までブルーの濃淡で模様が織り分けられた絨毯が敷き詰めてあり、手前にソファーセット、一番奥の衝立の向こうに3人は優に寝られた大きなベッドがあり、という夢のような部屋に泊ることができ、着いた日は、私もまっちゃんも24時間以上、こんこんと寝続けた・・という思い出がある。ファックスを送って手配したときも、その辺りのことをアピールしたのだけれど、一体今度はどんな部屋に泊ることができるのだろう。
 無事、バスに乗れ、「えっ?ここがシティー・エア・ターミナル?」と思うビルの谷間に降り立ち、たまたま居合わせた、少し濃淡の混じったブロンドのポニーテールにサングラス、赤いマニキュアにピンヒールのモード履き風サンダルのノースリーブのミニワンピースを着たお洒落なおばちゃんのタクシーで、「Hotel de France」に。
期待に胸を膨らませて到着した「Hotel de France」だったが、典型的なヨーロッパスタイルの重厚な雰囲気が漂っていた15(および13)年前と比べると、エントランスの屋根にガラス製の扇を斜め上に開いたような妙なアール・デコ風の飾りがあって、その上にそういう書体で「Hotel de France」と表示してあったり、何だかバブリーな感じでいきなりがっかりする。ただのリニューアルというより、経営者が変わったのかしら?という感じ。
 そのがっかりであまり期待せずチェック・インの手続きに臨むが、予想通りとはいえ、「15年前がどないやねん。」って感じの応対で、がっかりする。通された部屋も、勿論今はあるかどうかすら疑問な(聞いてみる気にもならなかった)ブラウアー・サロンではなく、かといって、当時男の子が泊っていたような船室のような雰囲気の部屋でもなく、ほんとうに普通のヨーロッパのそこそこいいホテルのツインルームだった。ただ、今年の夏は結構暑いので、こちらではよくあることとはいえ、エアコンがないのはちょっときつかった。
 そのツインルームに入ろうとすると、いきなりドア下にピンク色のメモが待っていた。見ると、今日会えるかも知れない、また、ロイテのエリザベスから下の女の子の洗礼祝いの、手作りならぬ、手デコレーションろうそくを託されている、ウリからのメッセージが英文で記されている。「私に会いに来るならすぐにU4でHietzingに行き、60でHermesstrasse*に乗って来てください。もしそうしたくなければ午後1時にもう一度電話します。*裏を見てください。地下鉄U2番でKerlsplatsに行き、地下鉄U4番でHietzingに行き、市電60番でHermesstrasseに行き、まっすぐ歩いて、横断歩道を渡るとSpeisingerstrasse 65で、"Meinl"という店が同じ建物の中にあります。」というものだった。
 ウイーンでは洗礼式の関係でウリに会えるかどうか微妙だっただけに、すぐに電話して、行くように伝え、とにかく着替えだけを済ませ、忘れないで蝋燭を持ったことを確認し、メモの指示に従い、日本から持って来たガイドブックの交通路線図を参照し、自力で向かう事にする。
 どれもこれも初めて乗るものばかりで、結局、悪気はなかったのだが、最後まで市電での運賃の払い方が判らず、只乗りしてしまったりしつつも、降りる場所を間違えるまいと緊張はしていたものの、何のトラブルもなくウリの家に到着した。

 ウリ宅に着くと、ロイテのエリザベスの友人でもあるご主人のクリスチャンが出迎えてくれ、さらにはオーストリア名物の肉団子入りのスープなどなどをわざわざ作ってくれていて驚いた。ウリ、クリスチャン、そして私達で、例によって15年ぶりとは思えないランチタイムを過ごすことができた。ウリは17歳でピチピチギャルだった当時と比べると2女の母となり、少し痩せて(正直いうとやつれて)落ち着いた感じで、ご主人のクリスチャンはロイテのクリスチャンとは同じ名前でも全く雰囲気の違う細長くて「ダイ・ハード」の一作目でのブルース・ウイリスの敵役だったテロリストのボスをしていた(そういえばアメリカ映画でテロリストってどういうわけかゲルマン系なのよねえ。)俳優さんのような系統の顔の人で、手料理まで作ってもらいながらこんなことをいうのも何だけれど、ウリがやつれたのはひょっとしてこの旦那の神経質さが原因かも、なんて思ってしまった。「穏やかに笑みを浮かべつつも目が笑ってへんで、あんた。」って感じの人だった。あの非常に表裏なくオープンなエリザベスとお友達なのが意外だった。
 そのランチでの会話の中で、同じくC.I.S.V.erであるクリスチャンから「ところで、どうしてこういう旅を思いついたのですか?」と、微笑みの中にも何だか探るような感じで尋ねられ、ウリには、「あなたはリンクよ。みんなを結ぶ。」と言われた。ウリの指摘は何だか「我が意を得たり。」という感じで嬉しかったが、クリスチャンの質問には「あのキャンプを体験していて、どうしてみんな思いつかないんですか?」という気分だった。一応例によって、私は「サシ」の関係の方が得意で・・・みたいなことを話しておいたが・・・。
 ランチの後、先にお昼は済ませていたらしい、ウリの子供カリーナ(2~3歳)と明日が洗礼式のマリオンに対面し、一緒に'77年のキャンプのアルバムを見たりして過ごす。無事エリザベスからことづかったろうそくも手渡し、一安心し、ウリ宅を後にすることに。母であるウリとはそこで別れ、ご主人のクリスチャンに車で送ってもらい(こんなによくしてもらいながらも悪く言ってご免なさい。でも、好きになれなかったわ。)、割合ご近所の見どころ、シェーンブルン宮殿へ。15年前にも13年前にも滞在場所の関係でヴェルヴェデーレ宮のみしかいったことがなかったので、初めてのシェーンブルン宮だ。

 ここもまた、ガイドツアーに入らずして見ることはできず、フュッセンでの白鳥城観光の時にドイツ語でのガイドツアーに混ざってちんぷんかんぷんで参ったので、今度こそ英語のガイドツアーに入ろうとしたのだが、時間の関係でドイツ語の最後のツアーしか残っていなくて、それに入ったので、またちんぷんかんぷんだった。が、私もまっちゃんもルードヴィヒの趣味よりも、ハプスブルグ家の趣味に洗練を感じ、「やっぱりこっちよね。」と思ったが、東洋趣味の調度の多さ、そしてそれを、着物をガウン代わりにするように、ヨーロッパの様式に押し込めるやり方には驚いてしまった。
 ガイドツアーを終えて、庭園に出る。その広さに圧倒されるが、何といっても薔薇園の美しさが圧巻であった。
シェーンブルン宮を後にして、地下鉄に乗るが、地下鉄の駅への入り口もまた宮殿のイメージと同じように設えてあり、その配慮に唸らされる。

 今日はウイーン最初の夜。地下鉄で15年前にその荘厳さに感動した、聖シュテファン大寺院のあるシュテファンプラッツに出て、ビヤホールではなく、ワインケラーへ。ガイドブックに載っていた牛タンの燻製と、生ハムの盛り合わせが選択の決め手だった。無事ウリにも会え、思い出のウイーンでの初日を無事過ごせたので、緊張を解き、お目当てのおつまみを肴に、私は白ワインを、まっちゃんはやはりここでもビールを心ゆくまで飲み、そろそろテーブルでお勘定を、ということになり、土曜日で常連客も観光客もでごった返す中、お代わりを重ねていたわりにはあまり愛想がいいとはいえなかった私達の係のオヤジウエーターを呼ぶのだが、呼べども呼べども来ない・・ので・・、もういい加減帰りたくなったそこそこいい按配に酔いの回ってきた私達は・・・、そおっと、元来た道を引き返し・・・、出口を出て・・・、一目散に地下鉄の駅に向かい、エスカレーターを降りるまでずっとダッシュ。追っ手が来ないことを確認して・・・、周りの人は何だろうと思ったろうが、地下鉄のホームで笑い転げたのであった。生まれて初めての、多分これから後もないであろう、食い逃げ体験だ。日本人観光客のイメージを汚してしまってごめんなさい。でも、ほんとうにいくら呼んでも長いこと来なかったんだもん・・。ただ、次の日観光するのに、この聖シュテファン大寺院がある辺りというのはどうしても避けることができず、小心者の私達はどこかであのオヤジとばったり出くわしそうで、気が気ではなかった。多分ああいうのは、現行犯でないと捕まえられないとはいえ・・・。少しだけ、指名手配されている人の気持ちが判ったような気がした。やっぱり悪いことはするものではないですねえ・・。

 明けてウイーン第2日。7月5日(日)。明日のフライトは11:40発なので、今日がウイーン観光のできる最後の日だ。しかもあいにく日曜日で、お店は飲食関係以外殆ど閉まっていてショッピングは不可能だ。仮に出来たところで荷物を増やすわけにはいかない私達なので、却ってよかったかもしれないが・・。そこで、食いしん坊の私達にははまり過ぎているかも知れないが、デーメルのザッハートルテと、ウリご推薦のトルコ料理の店「レバンテ」でのランチと、これだけは絶対外すわけにはいかないハイライト、ホテル・ド・フランスでのウインナー・シュニッツェルを中心に据え、金崎先生に推奨、また、依頼された、オッtー・ワグナーの建築を中心とした建物と街並ウオッチングをして過ごすことに。
 まずは例の聖シュテファン大寺院近くにある建築家ハンス・ホラインの最新作(当時)であるという商業ビル見物からスタート。確かにこの辺りにしては奇抜で、後にドイツで他にいくつか彼の作品を見た後では「らしいな。」と思えるようになった、曲線と直線、また、直線のねじり(?)が独特の感じだった。次にKohlmarktを突き当たったところにある王宮へ。壁の白と、中心にある丸屋根の緑青と思われる緑(ということは出来た当時は銅の色だったのか?)と、装飾に使われている金色のバランスが上品で、とても美しい。
 予想していたとはいえ、ショーウインドーに「いいな」と思えるものがディスプレーしてある店はことごとく休みだったが、唯一私達の「務め」でもある絵葉書書き用の絵葉書の売っている土産物屋はさすがに開いていて、ホテルにステイして何の気兼ねもなく葉書が書けるのは当面このウイーンだけでもあるので色々取り混ぜて40枚近くも買い込む。
王宮付近を散策し、後で行くべし「レバンテ」と「デーメル」の位置を確認し、スペイン乗馬学校へ。ここの門の渋い石の赤と黒(濃紺?)の色はこの辺りでは"エキゾチック"な感じがする。さらに新王宮へ行き、マリアテレジア広場へ向かったところになにやら博物館らしい建物の前に高さ3メートルはあろうかという巨大な、しかも身体は前後2面、顔だけ前後左右の4面持つという不気味なテディーベア発見。これはテディーベアの展覧会だな、と思い、せっかく偶然出会ったのだから、と、中へ。その特別展を見た後、常設展も折角だし・・・と見に行ったたところ、何と、日本では今時滅多とお目にかからない、種類ごとに分類された剥製の嵐!図らずも自然史博物館に来ていたのだった。しかし古くからの石造りの建物に整然と剥製達が並んでいる様子は、好き嫌いは別として圧巻だった。日本にはない種類の博物館だと思う。
 途中道を歩いていると、電柱ジャズ界の巨匠、大阪ブルー・ノートに聴きに行ったこともある、マッコイ・タイナーの名前など必要最低限の情報のみが黄色地に黒で書かれたシンプルでよく目立つジャズフェスティバルの広告を発見。パンフレットのみを入手して満足することにする。その会場になるというフォルクス劇場の外観も古くからある感じの素敵な建物で、そこでジャズが、というのが興味深い。

 そこから再び先程下見をしておいた、「デーメル」へ。途中、通りで演奏していた、ポーランドの民族衣装を来ていた若い男の子達のバンド、「Polish Folk Band」の演奏がとてもよく、CDも売っていたのだが、現金の持ち合わせが少なく買うのを断念。ポーランドに行った時に探そうと思う。やっぱり音楽の都、ウイーンのストリートミュージシャンはとてもレベルが高い。
 「デーメル」店内へ。店の構えも、ウインドー・ディスプレーも、中のインテリアも、食器類も、全てが上品でゴージャス。ザッハートルテと折角ウイーンなのだから、ウインナーコーヒー=アインシュペナーを頼む。どちらの味も上品で大満足。その後ランチをしに「レバンテ」へ。ドイツ語のトルコ料理メニューの中で、唯一判読できた、「○○Kebap」の「ケバブ」→きっとシシカバブの一種→おいしいに違いない。と、勘で頼んだメニューがとてもおいしく、大成功。店に来ているお客も地元の人ばかりで、他の観光客に対して優越感に浸る。やはり、持つべきは地元の友だ。
 今日でウイーンの街を見られるのも最後、と思うと、夕べの件で気が引けるとはいえ、やはり聖シュテファン大寺院を訪れないわけにはいかなかった。やはりこの建物はいつ見ても荘厳だ。思わず罪を懺悔してしまう。

 いよいよ、オットー・ワグナーのマジョリカ・ハウスを見るために、南下。マジョリカハウスの通りを挟んで南側には突如漢字で、○○商店と書かれていたりする店もある、中心に何だか中国っぽい小さな時計塔をいただく平屋のショッピングモールというか、バザールというかの、今までヨーロッパで見たことのない不思議な世界が広がっていた。まず、当のマジョリカ・ハウスよりもその不思議な世界に意表を突かれた。
 当のマジョリカ・ハウスも、私には奇跡のような建物に思えた。右側の棟は、白い壁に緑の窓枠に金色の装飾という、一見伝統的な洋式を踏襲していながら、完全に平らな壁面や、一番上から上から2番目の階付近でぴたっと金の装飾が止まっていたり、ぱっと見にはわからないのだけれど、平らな屋根の両端には金の鯱鉾ならぬブロンズの女人像がくっついていたりして・・いつまでもアバンギャルド、という感じだった。左側の棟は、両横の建物との間に蔦の絡まるような緑色のペイントを配し、あとは真ん中は2階の窓まで、そしてそこが半円の一番下側になるように、左右に行くに従ってピンクで描かれた花とそれにからまる茎や葉のようなペイントの部分の上下の幅が狭くなり・・、という装飾になっている。この右が金、左がピンクと緑の花柄という組み合わせに、度肝を抜かれるのだが、その横に並ぶ、あと二つの個性的な建物----花柄のすぐ隣は灰色っぽい白に濃いグレーでアクセントがついた、やたらと立体的な装飾の建物で、その隣は黄色っぽい色で、なだらかな丸みはあるが比較的のっぺりした建物。---とのバランスを考えると、ちょうどいいのかもしれない。
 また、この建物があるせいか、ご近所のビルの壁面もとてもユニークで、ほんとはただの壁なのだけれど微妙に陰影をつけながら全体にペイントされていて、卵色地に白で柱が、緑で窓枠が1階は中央が入口の絵のため二つ。それ以外は3つずつ×5階分計17個分描かれていて、窓の向こうには空の色が透けているため、あたかもそこから向こう側が見通せるかのように見え、よく見ると各窓に一匹ずつ猫が居て、ふうん、と思いつつ見上げると屋根のところにスポンサーとおぼしきキャットフード会社のトレードマークが描かれている、という仕組みになっていて感心した。

 その後、次の目的地「分離派教会」に向かうついでに、先程から気になっていた、マジョリカ・ハウスの向かいの島に立ち寄る。日曜で、見事に全部閉まっているが、縁日の露店を大きくしたのが連なっている感じで、平日、店が開いていたら、さらに怪しい雰囲気だろうと推測する。他にも「東洋商會」と書かれた看板などを発見。その島を離れ、さらに南下すると、「アジア商店」という日本語の看板を発見。準備中、の文字も見られた。カリフォルニア米がどうのこうの、とも日本語で書かれていたけれど、字の汚さからして、オウナーが日本人かどうかはとっても微妙な感じ。この辺りは道ゆく人からしても、マジョリカ・ハウス前の道を境にして南側はアジア系外国人街、という感じだ。
 分離派会館に到着。時間のせいで中には入れなかったけれど、ほんとうにお洒落。やはりこちらも、白と金という、伝統の色使い、素材使いでありながら、基本的に直線的で左右対称で、平面的な中に曲線的な装飾を用いているところ、それと(ここは本物の鉢植えの木による)グリーンの配し方が特徴、と、いった感じ。この裏にはカフェがあり、そこには入ることが出来たので、私はラムのトニック割りを注文し、一息入れることにする。近くに造形美術アカデミーがあるせいか、他のお客さん達は学生や教授達なのか、思いっ切りお洒落でスノッブな感じの人達ばかり。あまりのかっこよさに写真を撮るのがはばかられるほどだった。

 オットー・ワグナーの建築を訪ねる旅の最後は「カールスプラッツ」駅舎。今はオットー・ワグナー記念館になっていて、向かいにはうり二つのカフェがあるが、どちらも時間にギリギリ間に合わず、入場できず残念。が、ここにきて、白、金、緑、平面、直線、曲線がキーワードであることを確信した。

 ホテルへ帰る途中、また聖シュテファン大寺院の横を通ると、寺院の横でライブをやっていた。よく見ると旧ユーゴスラビア難民支援のチャリティーだった。グラーツで見た標識を思い出す。
 部屋へ帰ると、私達は狂ったように葉書を書いた。手許に残したのは、後で買い足したワグナーの建築関係のものが殆どだから、ざっと40枚ほどは書いたことになる。気付いたら8時半頃になっていたので、二人とも、もうレストランに足を運ぶ気力は失せていて、思い出のウインナー・シュニッツェルはルームサービスで食べることに。それぞれビールとウインナー・シュニッツェルに私はビーフコンソメ、まっちゃんはトマトサラダをオーダーして、ウイーン最後の夜の締めくくりとしたのでありました。やはりウイーンで食べるウインナー・シュニッツェルはおいしい!そして私達はこの、レストランに行くようにいちいち着替えなくても、マナーに気を使わなくてもいい、"お気楽ルームサービスの道"へとはまっていくのであった。

 翌朝、7月6日(月)。このホテルに東京銀行ウイーン支店があることに目星をつけていた私達は、両替をするべく、2階にあるらしいオフィスへと向かった。ところが、どういうわけか、階段の踊り場に閉じ込められそうになり、すんでの所で、たまたま通りかかった行員(やはり日本人だった。)の人に助けてもらう、というハプニングが起こった。そこまでして行ったのに、結局そこは単なるオフィスで両替の実務はやっていないとのことで、骨折り損だった。そのアクシデントでもって、私達の「ホテル・ド・フランス」滞在は終わり、15年前の感動は味わえないまま、チェックアウト。空港に向かった。