7月6日(月)アテネに到着。オヤジとウゾを飲む。

7月7日(火)。アクロポリスの丘など散策。ピレウス泊。

7月8日(水)エーゲ海→プラカへ。

7月9日(木)ルーマニアへ出発。

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 OS873便にて、11:40にウイーンを発ち、15:00にアテネに到着する。
 ギリシャの空港には、勝手にリゾートの雰囲気を連想していたが、実際に降り立ったそれは、警備のための軍服を来た男の人達が沢山いて、物々しい、未だかつてどこの空港でも味わったことのない雰囲気だった。また、ここまでは、今回の旅で沢山の国を周った証として、当然押されるものと思っていた、入国審査でのパスポートへのスタンプも、日本のパスポートを見せた途端(未だに経済大国と思われていて、不法滞在、不法就労をするとは思われないせいか)、一度も押されることなく、ノーチェックで通り抜けざるを得なかったのだが、この国でようやくそれを初めて押された。そういえば、ここの政権はたしか社会主義だったのだったっけ・・・、と思い至った。

 そんな重々しい空港の雰囲気に心も少し重たくなっていたのだが、いざ、空港の外に出て、一般の人の入って来られるところに足を踏み入れた途端、びっくり。燦燦と降り注ぐ太陽の下、手紙のやり取りで迎えに来てくれることになっていた、レオニダスのみならず、イバンゲリアを先頭に、その弟、パラスケビ、レオニダスの義弟(奥さんの弟。)までが、3台の車(特にレオニダスの義弟の、あちらでは時々見かけた、左側のボンネット部分に白地に黒で、わざとペンキをポタッと落としたような模様でペイントしてある「マツダ・ファミリア」が印象的だった。)を連ねて来てくれていて、特に元から知っているイバンゲリア、パラスケビ、レオニダスからは熱い抱擁+キスという、これまでのゲルマン系の握手の歓迎に慣れた私達にはhot!な歓迎を受け、今迄に会った人達の中では最も英語が通じにくいのだが、だからこそ心が通じ合うような感じで、一度にギリシャが好きになった。
 こんなに集まってくれて、私達は一体何処にいけばいいのか?と、思っていると、彼等の間の長いギリシャ語による討議の末、私達2人はリザ(イバンゲリア)の弟、エマニュエルの車の後部座席に乗り、リザはパラスケビの車に乗り、レオニダスは元来た通り、義弟の車に乗り、全員で、イバンゲリア宅に向かう。
 私達と初対面で、英語は殆どダメで、私達がほんの少々判るドイツ語はそこそこいけるエマニュエルであるが(推定50代前半。)、私達が彼の車に乗り込んだ瞬間から、主にギリシャ語に、少し英独語を取り混ぜて、絶えず話し掛けてきて---例えば、「マイ(英) スピティ(ギリシャ語で確か「家」) イズ(英) グーート(独の良い)」という具合に---とにかく一生懸命なので、不思議とコミュニケーションがとれた。
 以前パリで、人々の車の運転の無茶苦茶さに驚いたことがあるけれども、ここ、ギリシャの人の運転も、もう無茶苦茶。大阪どころの騒ぎではなく、どうしてこれで事故が起きないのか、全く判らない。彼、エマニュエルもご多分に漏れず、彼の姉、ルーラのVWゴルフの古くて、タイヤもつるつるのやつを、カーブの度にキーキーいわせては、「ラーリーラーリー」とニコニコしつつ運転席から私達を振り返るので、恐怖は倍増。「ラリる」の語源がギリシャ語だったはずはなく、何のことだろう?と思っていたら、そのうち別のカーブのキーキーの時に、「アイルトン・セナ!」と言ってくれたので、「ラリー」のつもり、ということがわかる。こんなとこで、こんな年して、こんな車でやらんといてくれたって・・・。
 その恐怖のドライブも無事終わり、リザ宅に到着。そこではリザやエマニュエルのお姉さんの、ルーラも待っていてくれた。これからみんなでどこかに行くのかな、と思っていたら、明日以降の予定を再びギリシャ語であーでもない、こうでもない、と地元の人達で立てて、1時間足らずでレオニダス、パラスケビ一行は帰って行った。そこで少し拍子抜けしたのだが、聞けば彼等はそれぞれそこから2時間はかかるところに住んでいるという。私達を出迎えに来てくれるためだけに、そんなに時間をかけて集まってくれたなんて、何て人達だろう!と感激する。

 と、いうわけでリズ宅で暫く歓談した私達だったが、また先程のエマニュエルの運転で、今度は彼自身の白い「SUZUKI」の軽で、ドライブすることになる。彼曰く、ルーラのゴルフより「グート」ということだが、私らには「どこが?」という年代物で、またタイヤがツルツルの代物。例のごとく、カーブはキーキー、手に汗ものだ。その「ラーリー」の果てに着いたのは、夕暮れ時で、暗くてあまり景色の見えないヨットハーバーだった。よく見えないだけでなく、別に彼がそこのメンバーでもなかったのでそこのカフェに入ることも出来なかったので、別にこんなおっさんと・・(ごめんなさい)と思いつつ、とりあえず記念撮影だけして、次に向かう。
 次に向かったのは、ただ四角い建物の内と外にテーブルと椅子があり、建物の外に面した大きな窓に、枠に沿って赤と白の「コカ・コーラ」のテープで装飾が入った、後にその辺でよく見かけることになるタイプの飲み屋。客も店員も見事に「オヤジ」ばかりの店で、中では彼等がゲームなどもしていた。「女の人は?」と尋ねると、さも当たり前、という感じで「食事の支度」という答えが返ってきて、女の人が飲み屋に行くのが特に珍しくもない時代の日本に生きていることの幸福を思う。
 まっちゃんは例によってビールを頼んだが、私とエマニュエルは地元のもの、ということで「ウゾ」というスピリットにする。噂には聞いていたが、水で割って白濁したところを飲む。キャンプ当時、私のボニート(くじ引きで決まり、知られないように親切にしてあげる友達のこと。)が、私の枕の下にそのフレーバーの飴を入れてくれて、それが嫌いだった私は「どこがボニートやねん、いじめやないか!」と思ったりしたこともある、「アニス」の匂いがすごく薬っぽい。私が飲み干すと(私も大人になりました!)、エマニュエルは満足げだった。

 その後家に戻ると、やはりあの時間帯に支度してくれたらしく、夕食が私達を待っていた。何と、まだ見ぬリザ達の85歳になるお母さんが、腕によりをかけて作ってくれたものらしく、見た目も美しいし、味も素晴らしかった。この日のメニューはトマト入りオムレツと、葡萄の葉でご飯を包んで煮込んだもの(絶品!)と、フェタチーズ、オリーブ、キュウリ、トマトの入った典型的なギリシャのサラダ。みんなこのドレッシングをパンにつけて食べる。(たしかにおいしいけれども・・・。)
そのお母さんはもう休まれたということで、リザ、エマニュエル、ルーラと一緒に食事をいただく。先程言ったように、エマニュエルはドイツに行ったことがあり、ドイツ語はまずまずできる。ルーラはフランスに留学したことがあり、フランス語はできる。リザは難しいことは無理だが(今になって思えば、これでよく、キャンプ当時リーダーが務まっていたな、と思うが・・)、英語はできる。私達は、 まあ英語が出来、私はフランス語、ドイツ語、イタリア語をちょこっとかじったことがある。という一同で、それらの外国語と、何と言っても、ここの言葉であるギリシャ語、そして、我らが日本語を駆使した会話が繰り広げられたのであった。とにかく「言葉は道具である。」と実感。何とかコミュニケーションを取りたい、という一心なので、内容も他愛無いものではあるが、笑いが絶えなかった。私達も、15年前と比べれば、大概いい年になっているわけだが、この家族の、この年格好になっても尚、天真爛漫に言葉の間違いなど何のその、で話し掛ける精神に、国際交流の原点を見た思いがした。
 後に、ドイツやスウェーデンの友達に伝えたところ、「わっ。典型的なギリシャ人!!」というリアクションにあったのだったが、彼等にはもう一人、まだ会っていないエマニュエルのお兄さん、リザの弟にあたる、バシリウスという兄弟がいた。その年配の兄弟姉妹は、「理想の相手が見つかっていないので(諦めたわけではない)」、誰も結婚はせず、ルーラとリザはソーシャルワーカーとして、バシリウスとエマニュエルは子供向けの雑誌社に勤めている、ということだった。エマニュエルは、これから私達が自由に使わせてもらえるという自分のフラットを持っているが、基本的には、あのお母さんを中心にここでみんなで暮らしているらしい。素晴らしい家族の絆!?
 食事中、レオニダスから私達に「おやすみ」を言うための電話が掛かり、「明日はシンタグマに10時。」ということになる。 これだけ人なつっこいリザ家の人々だが、「私も世界中、色んな所を旅して、色んな人達に泊めてもらったけれど、宿は別々の方が気が楽だものね。」というほんとに旅人の気持ちを知り尽くしたリザの粋な取り計らいで、食事が済むと、私達のために開放してもらった、歩いて5分くらいのエマニュエルのフラットへ。感激尽くしのギリシャの第一日が終了したのであった。

 明けて日本では七夕祭りの7月7日(火)。迎えに来てくれたリザとバスに乗り、1時間ほどかけてシンタグマへ。ここでレオニダス、パラスケビと落ち合うことに。ただ私達の起きる時間を考慮して予定を立ててもらったのだが、そこでラッキーなことに有名(らしい)な儀仗兵の交代を見ることが出来た。
 この国(に限らず、殆ど全てのヨーロッパの国では兵役の義務が今でもあり、レオニダスもやはり18歳の時に果たしたらしい。レオニダスも11歳当時には想像できなかった、逞しいハンサム・ガイに成長していたわけだが、儀仗兵の人達は(ヨーロッパ何処の国でもこういう衛兵系の儀式に携わる人達はみんなそうらしいのだが)、みんな長身でハンサム(しかもそういえば密かにジョージ・マイケルが好きだった私にギリシャ系は堪えられない!!)な粒よりで、正面に丸いメダルのようなものがついた、右耳の上からウエストまで黒の、フリンジというにはあまりに長い飾りのついた、黒縁の臙脂の、ベレーのようにピタッとした帽子をかぶり、靴はお揃いの色で先が尖り、甲に帽子の飾りに負けないバランスを保った巨大なボンボンがついた(まるで絵本にでてくる妖精のもののような)ものを履き、ベージュ地に金ボタンで、襟と肩章には深緑をあしらい、ウエストをマークした、おしりが隠れる丈で、ベルトから下にはまるでプリーツスカートのように、細かいプリーツがよせられた上着を着、その下にはピチッとした、その膝の部分に全体の装飾のバランスを取るかのように黒いテープが巻かれ、後側に同色の大きな房が垂れている白のタイツを履いているのであった。(あまりに格好よかったのでしつこく描写してしまった。)そして、それには不釣り合いに見える銃剣(だと思う)を左の肩に担いで、広場のスペースを巧みに使い、太極拳さながらの大きくゆっくりとした動きで、例えば、一度90度に上げた足の膝から下を半分下ろしてまた上げたりしながら歩くのであった。この時ばかりはビデオカメラを持ってこなかったことが悔やまれた。

 若者コンビと落ち合え、交代の儀式も無事終了したのでリザとはここで別れ、今日の次の目的地、アクロポリスへ向かう。途中、忘れないうちに、ということで銀行で両替した後、ルーマニア航空のオフィスへ行き、リコンファメーションをする。私達の旅程表を見る度、レオニダスから「どうして次の目的地ルーマニアは10日間も行くのに、ギリシャはたった三日なんだ?」(実際は「ホワイ ルーマニア テン デイ? グリース スリー デイ?」)と言われ、その度に、ほんとうにその通りなのだけれど、「ルーマニアは3人の友達が遠く離れたところに住んでいて、それを全部回るのに時間が掛かるのと、フライトの関係で10日になって、ギリシャはみんなの住んでいるアテネとピレウスが近くにあるのと、フライトの都合で、残念ながら3日になってしまったの。」と説明するのだったが、全部を隈無く回る、という旅の目的からして、ほんとうに初めからタイトに飛行機を予約しておいて(それによって、変更の余地がなくなるため)よかった、と思う。でないと、別れのタイミングが難しい。自分達だけで着のみ着のままで無期限に旅行できるならともかく、今回は待ってくれている、そしておそらくその為に休みを取ったりしてくれた人が各地にいるのだから・・・。
 有名なスポットらしい(が、昼間は結構閑散としていた)プラカを通り、レオニダスにスプライトをおごってもらう。レオニダスはミネラルウオーターを買い、手に持って歩く。この若者コンビは外国語が殆ど出来ない人達で、レオニダスの持つ英希・希英辞典が唯一の頼み。道々その辞書を引き引き説明してくれたところによると、彼はお菓子屋さんで働いているのだそう。コンフェクショナリー、ということは、そうなのだろう。作っている職人さんかどうかははっきり判らないが、多分そうなのだと思う。でも、それだったら、「僕の作ったお菓子さ!」と言って、何か持って来てくれそうなものなので、違うのかなあ・・・。そして、パラスケビは手紙で聞いたとおり7歳の子供のお母さんで、働いてもいるようだ。昔と代わらぬハスキーヴォイスで、あのころからの別嬪ぶりに磨きがかかり、"パン!"と弾けるような体付きで、向こうのこの世代の人にありがちな、しっかりした骨格がそうさせるのか、お腹やおしりから腿にかけてなど決して細いわけではないのだけれど膝がきゅっとしまって、膝から下は「棒のようにではなく」美しい曲線を描きながらきゅっと細長く、足首もきゅっとしているのでとにかく格好いい。そして、黙っていたら、7歳の子供の母親だなんて決して思えない。逞しい感じはするが、生活感はないのだ。
 そんな彼等と言葉の壁をもどかしく思いながらも、何とか話してみたり、奥の手で昔キャンプで歌った歌を歌ってみたりして盛り上がりつつ、アクロポリスへと続く丘を上へ上へと上っていった。とにかく暑い。うだるような京都の夏とは対照的な、未体験の乾燥と日照で干涸びそうな夏だ。こんなところではスプライトなどの一時しのぎの乾き止めでは役に立たない。やはり、レオニダス先生に倣ってペットボトルの水を買うのだった、と、時折それをラッパ飲みするだけではなく、時に顔や身体に浴びせかけている彼を見て思う。
 それにしても、こういう名所への道を歩いていると、人と会える当てのないところでは、例えば、ウイーンでオットー・ワグナーの建築を、とか、フランクフルトでハンス・ホラインの建築を、というように、何かを見たい、というモチベーション(それも人に勧められて、というより頼まれて、しかも、自分も面白そうと思ったから出てきた)があったが、それ以外の街では、思い出のグラーツのキャンプ地跡と時計台を除いては、その地を訪れるモチベーションは「人」以外の何物でもなかったのだなあ、ということを、つくづく思う。旅行前は、これほど有名な場所なのにも拘わらず、ギリシャに来たらアクロポリスの丘に行けるんだ、という期待など微塵もなかったのに、こうしてここにいる。そして、来てみるとやはりその「オマケ」の偉大さに感動し、彼等の誇りに共感するのだった。
 今となってはストーリーはすっかり忘れて、その神々の名前ぐらいしか覚えてないのが不思議な気がするのだが、小学生の頃、絵の先生に岩波少年文庫の「ギリシャ・ローマ神話」をいただいて、その前後にマーガレットに連載されていたか、単行本になっていたのを見つけたかの、西谷祥子作の「オリンポスの神々」というマンガを愛読していたこともあって、とても気に入って読んでいたことがある。その舞台がこうして残っているなんて。それに何というスケールだろう。日本のお城の石垣を見ても、それをどうやって切り出して運び、積んでいったか、ということがとても気になる方だが、これは一体・・・。気が遠くなる。とにかく広い。
 丘を上り初め、ヘロデス・アティクスの音楽堂を通過して、ようやく入場券売り場に辿り着く。「着いた!」と思い、油断していると、チケットを買う前に団体客に雪崩込まれてしまい、チケットを買うのにまた一苦労だった。昔はギリシャ国民はただで入れたらしいが、この頃はメンテナンスの大変さから、同じようにお金を払わなければならなくなったらしい。また、ビデオ持ち込みは別料金を課せられるらしい。ところで、「自分はギリシャ国民だ」ということを、どうやって証明するのだろう?と、日本国民の私は思うのであった。海外旅行中ならパスポートを持ち歩いているかもしれないが、普段日本国籍であるということを証明するものは何も持ち歩いていない。免許証の本籍地が日本の都道府県ならいいのか?でも、免許証を持っていない人は?保険証を各自持ち歩くわけにもいかないし・・・。
 などとつまらないこと(かなあ?)を考えているうち、言わずと知れたパルテノン神殿へ。"パルテノン多摩"なんていうのが何だか恥ずかしい。このご本家はB.C.432年に完成したとのこと。あと何日で建都1200年なんていうカウントダウンをしている京都の人間ですらプライドが高いんだから、この辺の人がプライド高いのは当たり前だな、と思う。それぞれアテネ、ピレウスに住むレオニダス、パラスケビだが、ここに来るのは3度目ぐらいだそうだ。「京都に住んでいる私達の金閣寺のようなものよね。」と、みんなで話す。旅行業でガイドをしている人を除けば、その地の名所に何十回も行くのは日本から来たゲストを案内する日本企業の海外駐在員ぐらいじゃないかしら、と、思う。
 エレクティオン神殿、ポセイドン・エレクトゥスの神室のカリアヘッド(女性柱)はほんとに美しかった。(でもこちらの人は、美醜はともかくみんな彫りが深いから「ギリシャ彫刻のような」彫刻ができるのは当たり前のような気もした。)今は6本だが昔は7本あり、その失われた1本は大英博物館にあるとのことだった。まったく無茶するなあ。でもどうやって運んだのかしら。
 アクロポリスの丘からリカベトスの丘を望みながら、「結婚話」に花が咲き、パラスケビは6つか8つ年上の人と結婚していてすでに7歳の子供がいるということは7年以上前に結婚していて、レオニダスには23歳の奥さんがいるわけだが、ギリシャでは(じゃあ日本は?)遅くなればなるほど女の人が結婚するのは難しくなるそうだ。
 今日レオニダスが持ってきたカメラはソ連製のもの。道路標識などから地理的にはウイーン・グラーツにいる時に、政治的には(経済的にも?)ここにいると、東欧に近づいて来たな、という感じがした。このアクロポリスは国際的「おのぼり」プレースなようで、駐ギリシャ・アメリカ兵のグループがカメラ片手に、でも制服で来ている姿も見られた。彼等の任務って何なのだろう?

 アクロポリスの丘を後にし、途中で水を買って、顔にかけながら再びシンタグマ付近のバス停に戻る。ここでまたリザと待ち合わせだ。バス停付近のお土産物屋で一体何を見ているのか、と思うと、レオニダスからはパルテノン神殿のポスターを、パラスケビはプレッツェルを贈られる。日本人がリッチだと思われているからか、そういうのは野暮だという感覚からか、今までどこの国ででも何かをお土産として買ってもらったことはなかったので、その最初がこの(どちらかというとリッチでなさそうな)二人からだったことに感動する。正直なところこれからの長旅に「ポスター」は辛かったし、「プレッツェル」は今食べてしまえば形に残らないものだけれども、その心遣いが嬉しかった。無事にリザと会え、今日の夕食の時間にはパラスケビ宅で両方に会うことになっているので。ここで二人と別れ、バスの車内でアクロポリス等々の印象を話しながら、無事リザ宅に。すると、そこには、あのお母様特製のランチが待っていた。
 今度のメニューはグリーンオリーブとチーズとトマトのサラダ、お米入りミートボール・クリームソース掛け・フレンチフライ添え。そして、ビール。あのグラーツとはうってかわって、ここギリシャでは朝はラスクの様なパン少々に、ジャムにコーヒー(生まれて初めて飲むトルコ風。既にエスプレッソのブラックが大好きな私だったのですぐに馴染めたが、最初、当たり前のように小ぶりの素敵なカップにいれて出してもらったのだが、上澄みだけを飲むものとは知らず、下に溜まった超細挽き、ほとんど粉末状のコーヒーの「おり」というのか、ドローっとした姿を見たときには「どうしたらいいの!?」と思ってしまった。粉末にしたコーヒー豆と水を小さな鍋に入れ、沸騰させて、カップに注ぎ分け、粉末が下に沈んだら上だけを飲む、という作法らしいが、どこまでを「おり」とみなすかがとても難しい。いかにドロっとしているかというと、飲んだ後、カップを逆さにしてカップの内部にどんな模様がつくかで占いをする人が存在できるほどだ。)という軽さ。その後、炎天下でいくら歩こうが、ろくに「お茶」もせず、ほとんど何も食べないで2時頃食べるから、ランチと言っても、このご馳走くらいの ボリュームで「丁度いい」感じ。おいしい!
 こちらでは、この食事の後、どうもみんな、「昼寝」をするようだ。私達もそうするように勧められる。ここに来る前スペインなどでシエスタの習慣があると聞いても、ただの「怠け癖」のような感じしかしなかったのだが、ここの真昼の日光を体験すると、そんなときに働くのは「命取り」だ、という風に納得できるようになった。ほんと、そんな時に働くものではないのだ。

 昼寝、そして、予定ではこれからパラスケビ宅に1泊、レオニダス宅に1泊することになっていたので荷造りをするためエマニュエルのフラットに戻る。が、しかし、荷造りはしたものの、他に葉書書き、バスタブで足踏み形式による洗濯等々していたら、あっというまに時間切れ。昼寝は全然出来なかった。
 お洒落をしたルーラとリザが迎えに来てくれて、またバスを乗り継ぎ、パラスケビ宅へ。まず、ピレウス港まで行く。私にそういわれても題名くらいしかピンと来ないが、ここ、ピレウス港は、後にギリシャの文化大臣にもなった女優さんが出ている「日曜はダメよ」の舞台らしい。ここからいろいろな島に行く船が出ているらしく、二人に「私達はクレタ島に別荘を持っているから、次に来る時には絶対島に行きましょう。ギリシャは何と言っても島が一番なのよ〜。」と言われる。それが判っていたらもう少しギリシャに滞在する日数を長く設定したのに、と、ちょこっとは思ったが、そういう宿題があるから、また"次回"があり、その方がいいかも、と思う。それにしても、私には、ギリシャといえばエーゲ海に浮かぶ島々、という発想がなかったなあ。
 ここからさらにバスを乗り継ぐのだが、リザも全く初めて乗るバスらしく、どれに乗るのかがなかなか判明せず、たいへんだった。でも、その間にジョージ・マイケル系の私好みの人をじっくり観察することが出来たので、別に気にはならなかった。途中で道を聞き聞き、日が長いこの季節の一日もさすがに暮れかかった頃、ようやくパラスケビ宅へ到着した。

 パラスケビ宅は、もうちょっとで海、というところにある、白い四角張った壁が特徴の建物で、そういうと、いかにも絵葉書で見るような「エーゲ海に浮かぶ島の上のギリシャの家」を連想されるかも知れないが、海を望んで左の先には銀鼠色のガスタンクのような、オイルタンクのようなものが幾つか見え、その横には白と赤に塗られた巨大な煙突が立っていたりする、いわゆる「臨海工業地帯」のようなものが見え、家のすぐ横にも灰色の何かの煙突付きの工場があったり、家のすぐ手前まではコンクリートで舗装された道が通っているのだが、家の横から工場の間、さらに海までは荒涼とした灰色の地面にところどころ草が茫茫と生えていて、荒れ地に"取って付けたように"、家を建てたという感じで、絵葉書とは程遠かった。
 また、私達が着いた時は、まさにパラスケビがご飯の支度を終えようとしているところだったのだが、その家の中の造りというのも、ドアを明けたらいきなり右手に大きめの白い冷蔵庫があり、正面にパラスケビがこちらに背を向けて立つ格好になる、木目調の引き出しや開きのついたシンクがあり、その右手にガスオーブンが下についたコンロがある、という、これまたなんだか「いきなり」「とってつけたような」台所でがパラスケビが料理している様子は、私の記憶が正しいかどうかは疑わしいが、何か映画、『ストレンジャー・ザン・パラダイス』の世界のよう、というか、全てが「映画のセット」のようでとても不思議な感じがした。日本の家の勝手口からならともかく、ドアを開けたらいきなり横ではなく「正面」に台所がある家は、後にも先にも初めて見たのだと思う。そして、そこで料理するパラスケビは「所帯じみている」の対極にあり、浮世離れしていて、誰かが「見る為」にそうさせているようで、妙にセクシーだった。
 その台所を通り抜け、左右に部屋がある廊下を通ると白いバルコニーに抜けることになり、そこでパラスケビのご主人と息子さん、レオニダスとその奥さんと空港であったその弟さんが、既に集まって待っていてくれた。リザもルーラもおめかしをしていたので、てっきりそこに一緒に加わるものと思っていたのに、「じゃあ、私達はバスの時間があるから。」と、さっさと帰っていってしまうと、その場に残った人の中ではあの常に辞書を携帯してぽつぽつと・・レベルのレオニダスが唯一英語が話せる人になってしまった。また、ここに残った人の語学力のみならず、いかにも「大人」という感じのパラスケビのご主人はエマニュエルのような人なつっこいタイプではなく、「何で私がよその言葉を話さないと行けないのだ?」という類の「誇り高いギリシャ人」の典型といったタイプ、そして、レオニダスの奥さんは今まで見たギリシャの人の中で唯一金色っぽい髪で、青い目で、ねずみやウサギ的な顔で、華奢で、お金持ちの娘さん風で、「私のそういうところが好き」って感じのいけ好かないタイプで、「一体、私達はこれからどうすれば・・・」と、初めて不安になる。
 その中で会話をしたことで、覚えていることといえば、レオニダスに「日本ではトマト1kgはいくらだ?」と聞かれ、昔は一山、今は1個いくらで買っている私達は即答できず、「1キロいくらかは判らないけど、1個で大体1ドルくらい。」と答えて仰天されたこと。また、彼の義弟の自慢のファミリアの値段も聞かれ、それには逆に安くて驚かれたことくらいだ。日本ではファミリーカーのファミリアも、ギリシャでは高級車として売られていたようだ。私自身その昔フォルクスワーゲン・ジェッタの値段を車の雑誌で見て、内外価格差に驚いたことがあるから、そんなもんか。と、思ったが、弟さんはとてもショックだったようだった。
 案の定、折角のお料理--スブラギ(5ミリ位の厚さの羊肉を1メートル位の高さになるように大きな串に刺し、回転させながら特別なスパイスを利かせてローストしたものを外側からナイフで削り取り、肉と同じく5ミリ位の幅に切ったトマトやレタスなどの野菜と一緒にピタ風のパンで巻いたトルコ発祥(だと思う。)で、ギリシャでとてもポピュラーなファースト・フード。日本のハンバーガーみたいな感じでいたる所に売っている。)、トマトとピーマンの肉、チーズ詰めのオーブン焼、フライドポテト--もおいしかったのにあまり売れず、ビールのみ結構売れ、盛り上がりを欠いたまま宴は終わり、「明日は僕の家に泊って!」といいつつレオニダス一行は帰って行った。途中から英語が話せるということでかご主人の友達のキプロスから来た人(ということはキプロス人の人か?見た目もギリシャ人とは違うぞ。でも、後で知ったことだが、ギリシャとキプロスの関係は相当悪いはずだ。と、いうことは彼はキプロスに嫌気がさして、ギリシャに来た「元」キプロス人なのだろうか。パーティーで政治、宗教の話はタブーといわれているが、この辺の事情をもう少し知っていたならもっと突っ込んだ話が出来たかも知れない、と、残念に思う。この時は「キプロスから来た友人」と聞いて、「はあ、そうですか。」位にしか思わなかった。)が加わったのだが、私達のキプロスに対する認識が前述の通りでは話が盛り上がるわけもなく、暫くバルコニーに残って話した後、パラスケビの後片付けを手伝いかたがたキッチンに戻り、その後、玄関のドアの左側奥。キッチンの斜向かいにある応接間のソファーでコーヒーをいただきながら、パラスケビの色々な写真を見せてもらうことに。
その中には、この時にご主人に見初められたという、女子高の体育祭のような、揃いの白いポロシャツに紺の単パン姿でグランドで女同志でダンスを踊るパラスケビの写真と、同じアルバムに、でかいバイクに股がるご主人と、「これは先妻に違いない!」という当時のご主人と同い年くらいのピチピチの革つなぎの女性が登場して、リアクションに困る。また、これがディミトリウスの洗礼式の写真!といわれて見せてもらったのは、初めて見るギリシャ正教における洗礼式の写真で、正装の神父さんの横に、足のついた大きなお鍋のような釜のようなものがあり、神父さんにむんずとつかまれた(ように私には見えた。)裸の赤ちゃんが、まさにその中から引き上げられた瞬間の写真で、その釜だか鍋だかには当然水かぬるま湯が入っているはずなのだが、私には何やら「煮えたぎった湯による釜ゆで」を想起させ、「オー!ディファレント・カルチャー。」と思うのだった。
 この間私達にずっと付き合っていてくれた7歳の一人息子ディミトリウス君は、ハスキーヴォイスはお母さんそっくりだけれども他はどちらに似たのか、大きくて、ぽっちゃりとした、いつもにこにことした縫いぐるみ系のとても可愛らしい子だ。夜も更けてきて、そろそろお休みなさい、ということで、順番にシャワーを借り、先程のバルコニーに続く廊下の左手にある普段はディミトリウスの部屋に引き揚げる。パラスケビは私達がどこの化粧品をつかっているかに興味を持っていたが、洗面台の上には当時スキンタイプではなく「なりたい肌」で選ぶのが画期的だったクリスチャン・ディオールのエキテ・シリーズが並んでいて、「やるやん。」と思った。
 お休みなさい。といってバタンキューのつもりが・・・。これまで(特に私は)どこででも何の困難もなく寝付けていたのだが、バルコニーにいる時から少しは気になっていたのだが、「ぶーん」という羽音が絶え間なく聞こえてきては、私達に止まっていくからたまらない。電気をつけてみると、白い壁に小さな黒いものがあちらにもこちらにも点々と。そう、ここは海辺の(くさむら)の近く。「蚊地獄」だったのだ。その割に、ここには蚊帳はおろか、蚊取線香の類すらないのだ。ギリシャの人は蚊にかまれない体質なのだろうか?私達も初めは寝るつもりで、電気を消した状態で、いい加減に「パチン、パチン。」とやっていたのだが、あまりのことに電気をつけて撲滅作戦に出たのだが、全て手作業な為、効率がいいわけもなく、結局夜を徹して蚊と格闘することになり、気がついたら朝になっていた。ピレウスの蚊地獄恐るべし。

 7月8日。朝おはよう、といいつつ夕べの蚊のことを説明し、虫刺されの薬をもらう。それにしてもなぜパラスケビ一家はぐっすり眠れるの?あまりのロケーションに免疫が出来ているのか?珍しく眠れなかったため、蚊地獄の外側の世界を観察するため、カメラを持って朝の散歩に行く。うーん。やっぱり蚊には絶好の環境の様だ。その後みんなでパンとコーヒーで簡単に朝食をとる。その席で、パラスケビは「是非もう一泊して!」と言ってくれるが、ほんとに蚊地獄はもう懲りごりだったので、気を悪くされないように、丁重にお断りさせてもらう。
 朝食後、パラスケビは車でご主人を仕事場に送っていくので、私達とディミトリウスで留守番をすることに。ディミトリウスは絵本を持ってきて、色々説明してくれたり、ソファーの横にあるキーボードで色々と自分のインスピレーションに忠実に(平たく言えば無茶苦茶だけれども、「楽譜を見るのではなくオリジナリティーこそ、インスピレーションこそ大切!」と7歳にして力説してくれる持論に基づくもの。)弾いてくれたりするジェントルマンだ。その場の流れでじゃあ、私も一曲ということになり、「馬鹿の4つほど覚え」の中の一曲、日比谷でお互い何の下心もない野郎友達と何故か見た『愛人・ラ・マン』の主人公も弾いていた、私はショパンのワルツ集の中に出ている曲の中でシャープやフラットが最も少なくって弾き易そうだからという理由で勝手に練習して弾けるようになった、ショパンのワルツを弾いた。その途中でパラスケビが帰って来てウルウルしながら見守ってくれていたらしく、こんなことで喜んでもらえるなんて思いもよらなかったのでこちらの方こそ感激する。その後、『エリーゼの為に』をリクエストされるが、レパートリーになく、楽譜もなく「ごめんなさい」となってしまい、残念だった。
 その後、「ほらね。」と言って、パラスケビがあの77年当時の色々なもの---ソングブックや住所録や写真や手紙や交換したものがつまったファイルを持って来てくれたので、わいわい言いながら見る。やっぱりあのキャンプはパラスケビにとってもとても特別な、大切な思い出だったのだ。よく考えてみると、ここまでは当時ジュニアカウンセラーだったりスタッフだったりリーダーだったりした人---当時の「大人」側の人達---とばかり会っていたので、キャンプでの思い出や、キャンプに対しての思い入れも私達--当時の「子供」--とは微妙に違っていたようだったが、初めて同じ思いを共有した人と出会えて、とても嬉しかった。私達日本人も母国語が通じない上に、英語も大して判らないということに関しては同じだったけれど、私達には通訳してくれる強力なリーダーがいて、そういう意味ではあまり不自由することはなかったのだけれども、ギリシャの子達のリーダーはあのいい加減な英語のリザだったから、彼等はキャンプにあまり溶け込んでいないような印象を受けた。それでもやはり特別なことを彼等は彼等なりに楽しんでいたのだ。

 思い出話が一段落した後、パラスケビもレオニダスもずっとギリシャに来たからにはここに連れていきたい!!とギリシャ語で力説してくれていて、水をかいて泳ぐ動作でやっとそれと判った「海--δαλασσα」へ!!パラスケビの愛車、白のオペル・カデットで行く。当然マニュアルで、最初に述べたギリシャの無法なトラフィックジャングルに乗り込んで行くのだ。かっこいい〜!途中ピレウス港の近くでレオニダスを拾って、程なく海へ到着。どうもVoulaという名前のビーチらしい。そういえばパラスケビは自分の名前が好きではないらしく、パラスケビ→パラスケヴーラ→ヴーラ(Voula)と呼んで、と言っていたなあ。
 いざ、アテネのビーチに来てみると、老若男女みんなが人の目なんか気にせず、好きなように楽しんでいる、という感じで、もう女なら誰でもどんなでも「ビキニ」なのだった。ここに来て、今回のタイトなスケジュールではいかにギリシャとはいえ海に行くチャンスなどあるまい。と思っていて、泳ぐ機会があるとしても既に予約済みのホテルのプールくらいかと「競泳用の水着」しか持って来ていなかった、海といえば3〜4時間かけて日本海かそれ以上かけて太平洋かとすごくたいそうなことを考えてしまう京都育ちの私達の感覚がいかにこの地にマッチしていなかったかを「ガーン」と思い知った。かといって、新しい水着を買える店が出ているわけも、そんな時間もなく・・かっこわり〜と思いつつも、ここでは悪目立ちをする(まあ、みんな人のことなど考えてないのだけれど。)黒がベースの競泳用水着を着用したのだった。パラスケビは黒地に白の小花柄の、ボトムはほとんど紐ちゃうの?の、この辺の人御用達的な三角ビキニ。痩せはいないけれどもとにかくかっこいい!!ディミトリウスも負けじとビキニ。レオニダスは片足ずつブルーと灰色のトランクスに黒のタンクトップ(実は海に入る時などにこのタンクトップを脱ぐと、私もまっちゃんもあっと驚いたお腹が・・・。長身でハンサムで足もきれいなのに・・・でも、浜辺ではタンクトップを着用しているのは、本人もやはり気にしているのだろうか?!)という組み合わせ。
一般的に男の子達がそうであるのと同じく、社会人になってからオヤジのような生活をしていた私は数年前からお腹、お尻周りが気になっていたので、水着姿を人目にさらすのは嫌だなあと思ってしまう方なのであるが、まあ、お互い子供の頃からの知った者同志でもあるし、レオニダスの秘密のお腹も知ってしまったし、何よりもこの地中海の開放的な雰囲気でそんなものすぐに吹っ飛んでしまった。ディミトリウスと親子のように遊んでいるレオニダスを見て、パラスケビとレオニダスが夫婦だったらギリシャにもっと来易いのに。と、自分勝手に考えてしまった。
 そうこうしていると、私達が先に取っていた、パラソルや椅子で少し陰になっていた場所にビキニばあちゃん、じいちゃん軍団が割り込んできて、初めは姐御肌のパラスケビもお年寄りだからと下手に出ていたが、向こうが余りにも理不尽なことを言ってくるのでギリシャ語の響きのせいもあるのか、ものすごい口喧嘩になってしまった。結局向こうもこっちも譲らず、こっちが少し折れるような形になってしまった。
 レオニダスも近々島に海の別荘を買うらしく、「次は絶対最低10日はギリシャに来て、島に行くこと!」と言ってくれた。とにかくみんな私達の日程表を見る度に"Why Romania 10days, Greece 3 days" "10 days in Greece, Islands, very good!" と言ってくれるので、次は絶対そうしたいと思う。
 それにしても都会のど真ん中からすぐ海に行けるのっていいなあ、と、普段は日本のよその町に行って四方に山が見えないとすごく変な気分になるくせに、思ってしまう。シャワーや着替えのスペースも只だし、全体の雰囲気も垢抜けているし。次回からはどんな体形になってようと--いや、それを目指して体も作り直してから?--ビキニじゃ!!と誓う。

 ひとしきり海を楽しんだ後、再びパラスケビの車でひたすらとばす。途中オリンピックスタジアムを通り、ここでサッカーのワールドカップがあってギリシャがどこそこに勝って・・とレオニダスが熱心に話してくれるが、Jリーグのできる前で、サッカーのことなど全く知らなかった私にはちんぷんかんぷんでもう一つうまく話にのってあげることが出来ず、申し訳なく思う。後々どこに行ってもサッカーのことが話題にならないことはなく、もっと勉強しておくべきだったのかなあ?と、思った。
 どこに向けて走っているのかさっぱり判らないため、ひょっとしてレオニダスの家方面に向かっていて、そこでランチを食べる、というようなことにならないかと心配させられた(失礼な私!)が、ほどなくリザ宅へ到着し、安心する。ところが、呼び鈴を押しても出てきたのはあのお母さんだけで、レオニダスが聞いてくれたところによると、リザは外出していて何時帰るか判らない。とのこと。とても不安に思うが、「大丈夫、明日会おう!」ということで別れ、とりあえずエマニュエルのフラットに戻った。
 よく考えたら、ここギリシャでは今まで必ず誰かと一緒で自分達だけが放り出されたことはなかったので、初めて放り出されてみると少し途方に暮れるが、それ以上に空腹で、それを何とかしなきゃ!と、二人でこの炎天下、レストランを探すことに。ここはもろ、住宅街で、開いている店はお昼寝の習慣のせいか殆どなく、京都のうだるような蒸し暑さは大嫌いでたまにヨーロッパの乾燥した夏の気候にぶちあたるといつもその過ごしやすさに感動していたのだが、地中海気候のじりじり太陽が照りつけつつ、乾燥した暑さってこんなにも消耗するものかとヘロヘロになりつつ嗅覚を働かせ、時に通り掛かりの人に聞き、何とかテラスのついた結構おいしそうなズブラギのファーストフードレストランを発見。即座に入る。
 そこはカウンターで好みのものを注文してから作ってくれる形式で、またここでも最初の夜の飲み屋と同じく女性客は私達だけで、小柄で小食そうに見えるのに(?)、スブラギ一つずつにローストチキンにビール沢山を注文したら店の人に驚かれた。リザがいつ戻るのか判らないこともあり、それらをゆっくりと、でも着実に平らげていると、おっちゃん二人組に「一緒に飲まへんか?」と言ってこられるというアクシデントもあったが、こちらも二人なので適当にかわすことが出来、それでもまだ粘っていたら店からスイカをご馳走になって、とてもおいしかった。
 粘りに粘って夕方リザ宅へ行くと、さすがにリザは帰って来ていて、ギリシャ最後の夜に再びお母さんの手料理をいただけるという幸運が待っていた。最終日なので、今までは裏方に徹していたお母さんがついにおめかしして私達の前に現れてくれる。そして、みんなで色々な組み合わせで記念撮影をした。この時エマニュエルが「僕達を年の順で言えば、ルーラ、リザ、バシリウス、エマニュエルの順番で、それぞれ62、59、57、47で、僕が一番『ピッコロ』なので、一番可愛がられている。」と説明してくれて、ようやく兄弟の正確な年令が判った。でも、エマニュエルだけそんなに飛び抜けて若いという感じはしないなあ、と思った。正直なところ。記念撮影が一段落したところで遂にギリシャ最後の晩餐。茄子を使ったお料理で、付け合わせがフライドポテトで、サワークリームとにんにくとで作った白いソースを付けていただくのがポイント。そしてすっかりお馴染みになったトマト、チーズ、オリーブのサラダ。とにかくおいしいの一言。ギリシャ時間で夕食を済ませるとしっかり10時に。が、途中ルーラがさりげなく着替えていて、「何で?」と少し疑問に思っていたら、リザが「夜のプラカはロマンチックよ~!!」と盛り上がりを見せ、一体これは?と思ううち、まっちゃんと私がエマニュエルの車に乗ることになったので、じゃあ私達だけが行くのか?と思っていたら、あと3人はルーラの車で一緒に行くということを聞き、熟年パワーに圧倒される。みんな夜を楽しむためにちゃんとお昼寝しとくのね。こういうノリって合うな。と思う。

 私達の方が先に到着したのでルーラご一行様を待つ間、すかさずそこらの売店でピレウスの葉書を買おうとしたら、店の兄ちゃんに日本語で話しかけられ、お釣りをちょろまかされそうになったが全額取り戻すことが出来た。ルーラ達が着いたので、いざ、プラカへ。
 この日は水曜日なのに、もうヴァケーションに入っている人が多いのか夜のプラカはすごい賑わい。白い壁、石畳の路地に白熱灯系の温かい色の明かりがぼおっとあたりを照らしだす光景はほんとにロマンティック。そんなプラカの雰囲気を写真に撮ろうとカメラを構えると、突然エマニュエルが振り返り、微笑むものだから撮らなければしゃあなくなったり、「そら、ロマンチックかも知らへんけど、このメンバーでは・・・。」のプラカの夜であった。でも、また彼等と一緒だからこそ表通りの喧騒が嘘のような裏通りの静謐な中、白い壁に緑が映える美しさを味わうことが出来た。そこでそこかしこに眠る野良猫のロケーションがいいからだけともいえない上品さは感動的ですらあった。
 また、結局しっかり食べてきた後だから入ることはなかったのだが、タベルナの中から聞こえてくる音楽に足を停め、窓から中を眺めつつステップを踏んだり、キャンプの時には全く想像もつかなかったリザのお茶目な人柄に触れることが出来たのが一番嬉しかった。プラカを隈なく散策し、最後に外のテラスでビールで乾杯!周りはカップルや若いお兄さん方が一杯でほんとうにロマンティック。そんな中、この旅を通しての究極の話題となる「まっちゃんの見合い結婚が必至の状況」から始まって、結婚感(みんな「理想の相手が今まで見つからなかったので結婚しなかったまで。」と言っていた。4兄弟姉妹。)などを語っていよいよ夜も更け、帰りの道すがらギリシャ正教(ここでは当たり前ですが。)のミトロポレオス教会を興味深く見つつ、家路についたのだった。

 1992年7月9日(木)。3日間だけれども濃密な思い出の一杯詰まったギリシャを去る日。荷物をまとめ、エマニュエルのフラットを片付け、リザ宅で最後の朝食をとる。そして、リザと歩いて私達が避けて通れないところ、郵便局に連れていってもらう。その途中、前から気になっていた、「日本ではC.I.S.V.というのは別に国からの補助が出たりしているわけではないので渡航費など完全に派遣される人持ちなので、特に当時は正直言って裕福な家庭の子女しか行けなかったし、また、派遣者も一応選考のための面接などはあるとはいえ、そもそも募集がほとんど口コミで行われていて、そこからの選考になるのが実体だったけれど、あのキャンプや、日本でのキャンプに派遣されている子供達を見て、国によって状況が様々だと思ったのですが、ギリシャはどうだったんですか?」と聞いてみたところ、「勿論国が支援しているので、選考は慎重に行われなければならないし、施設(孤児院を意味しているのか?)にいる子の中で、これに参加させればより良くなる可能性をもった性質のよい子を選ぶのよ。選考には私も参加していたし、とても責任の重い仕事だったわ。お金持ちの子供なら自分達で勝手に行けるでしょ?だからこういう機会はそういう子達に与えてあげないと。」という答えが帰ってきて、衝撃を受けると同時にやっぱり、という気もした。衝撃、というのは日本にあまりにも欠けたそういう考え方。昔は日本でも例えば篤志家が貧しいが可能性のある人達を援助するということが機能していたみたいだが、いつの頃からかなくなってしまって久しいようだ。税制上の問題が起こるようになったから、と、聞いたことがあるが・・・。そして、やっぱり、というのはあの頃のギリシャチームの子達に私が持った「陰険」「馴染みにくい」という感じの印象というのはただリザの語学力不足によるコミュニケーションの困難から来ていただけではなく、やはりそれまでいた環境によっていた部分も大きかったのだな、と思ったことだ。でも、それから15年経って、どちらも何となく玉の輿に乗ったみたいで、その時に感じた険や暗さなど微塵も感じさせないハートフルな人達になっていたというのはほんとにリザ達の選択の正しさを証明しているということだなあ、と思った。
 そんなことに感慨に耽りながら郵便局に着くと、一気に現実に引き戻される長蛇の列が私達を待っていた。私達はこの後ヴァシリウスとエマニュエルの店により、あの海以降ヒリヒリは限界に来ているのでなんとしてもどこかでアフターサンローションを手に入れ、ランチをして、2時半頃までには空港に着いて、午後3時40分発のRO272便でルーマニアに発たなければならないのだ。リザの「この子達は急いでいるの!」の強気で順番を繰り上げてもらい、切手をゲットし、いつもながらの大量の葉書に何とか切手を貼り終え無事投函。その足で急いで二人の待つ店へ。二人の職業を「マガジン。マガジン・フォー・チルドレン」と聞いていたので「子供向けの雑誌って、一体・・?」と思っていたらどうもギリシャ語(?)でマガジンというのは「店か服」のことらしく、「子供服のお店」で、とってもキュートな水着なんかも売っていて、へえ、このおっちゃん達がねえ。と、最後のどんでん返しを楽しんだ。その後通りかかった店でヴィッテルのアフターサンローションをようやく発見。(サンオイルならどこにでもあったのに。)リザには「こんなものにこんなに払うのはよしなさい。」といわれるがそのものにしては適性価格だったし、とにかくなくては生きて行けないので即買う。
 いよいよ最後のランチ!いつものトマトときゅうりとチーズのサラダ以外のメニューは何だったか覚えていないくらいパッパッと食べる。そして、最後に驚いたのは、ここにレオニダス夫妻が来てくれたこと。それも、いつもの弟さんは兵役の関係で車でどこかまで行っているのに、わざわざ来てくれた。奥さんの方もこの日はレオニダスとお揃いのサングラスでカジュアルな格好で、前より気さくな感じ。宝くじ関係のキャンペーンガール的な仕事をしているらしい。ずっといけ好かない奴呼ばわりしていたくせに、こうしてわざわざ来てくれるとひょっとしていい人かも、だったら一度くらい泊めていただいてもよかったかも、と思う現金な私達であった。そして、みんなで話しているとパラスケビから電話があり、「ごめんなさい、今日私も行くつもりだったのだけれど、あれからディミトリウスが風邪を引いて熱を出していて行けなくなってしまったの。またギリシャに来てね。気を付けて。」とのこと。残念だけれど、キュートなディミトリウスが風邪を引いてしまったなんて、ほんとに可哀相。レオニダスに「ルーマニアでは誰が迎えに来るの?」と聞かれ「マリウスが来ることになってる。」というと、「マリウスか・・・」と、覚えていた様子。また「今度はギリシャに10日間!」と、念を押される。いよいよ出発の時間。この家ともお別れ。お母さんとルーラとはここでお別れだ。ほんとに美味しかった手料理の数々に感謝しつつ、またいつかギリシャに来られた時、お会い出来たらいいな、と思いつつお別れする。
 行く先々で厄介者になる私達の大荷物のせいで、今回も車が2台必要になり、私とリザはいつものラーリーのディミトリウスの車に。まっちゃんはレオニダス夫妻とタクシーに分乗して空港へ向かう。予定きっちり。あまり別れを惜しむ余裕のない時間に到着する。ここの空港に到着したときにもその雰囲気には驚いたが、ここでもう一度びっくり。出国審査を受けに行く時に、見送りの人と離ればなれになることになり、そこで別れを惜しむものとばかり思っていたら、何と見送りの人達は空港の建物にすら入れないのだ。だからここでお別れをしなければならないのだ。例によって、熱い抱擁でお別れの挨拶。ほんとにうるうる来る。けれどそんなところで別れの儀式をさせられるせいで、意外と気持ちの切り替えも早くでき、一旦入口に入り、みんなが見えなくなると、搭乗手続きに急ぐのだった。