7月18日(土)ブカレストにて。ルーマニア最後の日。

兵役の義務について

7月19日(日)ポーランドへ出発

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 一夜明け、7月18日(土)。実質的にルーマニア最後の日。お世話になったトヨタ・カローラを返す日でもある。
 いつものように、朝食はマリウス(この日はフェリチアも)が用意してくれた。この台所の窓際にあるテーブルで朝食をとっている時、窓から下を見下ろすと割合近くに軍隊の演習場(と、いってもドンパチやるわけではなく、宿舎と運動場がある、と、いった感じ。)が見え、ほとんどいつも兵隊の人が訓練している様子が見えた。
 戦前生まれの人はどうだか判らないが、私達の世代の日本人からすると、日本の自衛隊のように自分から好んで入った人ではなく、指揮官は別として、ほぼ全員が強制的に連れてこられたある一定の年令の男性で軍隊が組織されているということがすごく不思議なことに思える。
 18歳の頃、イスラエルの友人から来た手紙で男の子達が「サービス(=兵役)」に行っている、と書いてあったのにとても驚いたが、知らず知らずのうちに欧米=アメリカ=日本より進んだところという概念が擦り込まれていて、いつの間にか今時徴兵制があるなんて時代錯誤のように思い込んでいたけれども、90年に訪れる機会のあったフランスでも徴兵制があることを知り度肝を抜かれ、今までとこの後に訪れたヨーロッパの殆どの国で徴兵制がまだ生きていることを知るにつけ、地続きで様々な国と国境を接していて、これまでに色々な歴史があり・・・という事実がある以上この制度はやはり必要なものなのだろうなあ、と、感じた。
 こんなことをいうと「右」とか「軍国主義」と思われると厄介だし、自分自身この年で女性なので自分が行くことにはならないので無責任と思われるかもしれないが、そういう意味では「骨抜き」にされているように見える日本に対して不安を覚えざるを得なかった。ちなみにマリウスは兵役についていた時には消防士をしていたそうで、兵役がないうえに、消防士といえば軍とは関係のない職業。と、思っていた私にとっては「消防士=命に拘わる危険な仕事=兵役についている若者がやるもの」、という感覚は驚きで、1年半の任期のうちに100回以上火事場に行ったと聞き、また驚いた。勿論基本的な鉄砲の撃ち方などの訓練は終えた後に配置されるらしいけれども・・・。
 私はいいとこボンで日本で名の通った学校を出て、有名企業に勤めている稼ぎのよい人と結婚すべし、と思っている人も多かったようだが、私自身はもともと気が合うのはアート系の人だが惹かれるのは体育会系の人だったように、無意識のうちに動物的な本能として有事の時に生き残れるかどうかのような点を重視していたのか・・と、今にして思う。
 だから、しょうもないことのようだが、黒海での日時計や、この兵役体験は、「面」や、「自分を大切にしてくれそう」、ということに次いで、結婚を決めるにあたっての非常に高いポイントになった。

 話は思い切り横道にそれたが、朝食を取った後、カローラでサヴィンのお母さん宅へ。サヴィンが運転席に座り、私達がカローラで行く度に「cu mashina, cu mashina(=車で=「乗せて、乗せて!」という感じ)」と言い続けていたアドリアンとラヴィーニャ、そしていつもご馳走を作ってくれたお母さんを乗せてまず記念撮影。特にアドリアンの満足げな顔といったらなかった。まだ2歳だというのに。男の子が車を好きになる要素っていうのは遺伝子に組み込まれているのだろうか?今までは「私達が借りた車だから」ということであくまでもインストラクターに徹していたサヴィンだったが最後の最後のお礼ということでその後フェリチアが助手席に乗り、一家で家の周りを一周。とても喜んでもらえる。
 借りた当初は「カローラが夢の車だなんて・・」と思っていた私達だが、左ハンドルのミッションにも拘わらずすぐに馴れることが出来、この10日間トラブル知らずで日本では滅多にしないロングドライブにも悪路にも耐えてくれ、ほんとうにこの車なしでこの旅は成り立たなかったと思うので、今では「神様、仏様、稲尾様!(私って一体いくつやねん)」ならぬ「神様、仏様、カローラ様」と呼びたいほどになっていた。
 その神様のような、ブカレストナンバーのカローラとも、母がまっちゃんに贈ったうちの近所の御香宮の旅行安全御守りをキーホルダーにしたその鍵ともいよいよお別れだ。いよいよサヴィンにもフェリチアにも乗ってもらって返しに行く。
 まずは給油。と、思ったところ、PECO(ガソリンスタンド)はいつもにも増して長蛇の列。みんなに返す時間が迫っているとの事情を説明してもらって、ごぼう抜きで給油させてもらい、何とか時間に間に合う。

 車を返したらいよいよルーマニアにいられる時が短くなったことを実感する。今夜のおかずにする材料を買ったり、昨日書いた葉書を出すのに郵便局に行ったりするのに市内を少しうろうろした後、お昼を食べる為にサヴィン母宅へ戻る。
 いつもながらおいしい昼食の後、ラヴィーニャがイタリア語やルーマニア語の歌を歌ってワンマンショーを繰り広げてくれる。その最後にシーツを頭に被り、何かのおもちゃの輪っかをその上に被って留めてアラブのお姫様になったのがとても可愛くて大受けしたら、アドリアンも負けじと別のシーツをサヴィンにリボンで留めてもらいアラブの王様になり、本当に可愛かった。私がマリウスと結婚したい理由の何割かはこの子達の叔母さんになりたいから・・といっても冗談ではないくらい。特に子供好きというわけではない私がこう思うのはとても珍しい。
 一段落したところで食事を何度もお世話になったサヴィンのお母さんのお宅を辞し、みんなでメトロと呼ばれる地下鉄とトランバイエといわれる路面電車を乗り継ぎ、サヴィンのフラットへ。お母さんのお宅を再び訪れる日は来るのだろうか・・・。

 これからいよいよルーマニア最後の晩餐だ。9日前にこの地に降り立った時には、この地を去る時の感覚が、これまでに体験した久しぶりに再会した友達との別れから来る感傷以上のものになるとは夢にも思わなかった。
 サヴィンのお母さんとフェリチアが準備に取り掛かる前に、早速浴衣に着替える。ここまで出し惜しみしていたので、とても喜んでもらえ、記念撮影大会になり、フェリチアも「そういえば私も着物に似たのを持ってたわ。」と、黄色のサテン地に青と赤で手書き風の花が大きめに全体に描かれた素材のナイトガウン(さすがにこちら風に女物で打ち合わせが右前だったが)を着て登場したりして盛り上がる。
 ルーマニア最後のディナーはチキンのローストと、キャベツとチキンの煮物だった。どちらもパセリも効いておいしかった。煮物の方に使われていたキャベツはもともと塩漬けになっていたもののため、ただのキャベツで作ったのとは違うこくが出ていた。サヴィン家でのカトラリー置きはガラス製で左右が塩胡椒入れになっていて合理的なデザイン!だったし、初め見た時に何だか判らなかったスライスしたパンをつかむ道具は昔ドイツかオーストリアでベークドポテトの皮を剥くときにあつあつのポテトを崩れないように押さえておく円筒形の柄の先が三股に分かれたフォークとは似て非なる道具の様でいてその柄の頭(?)部分を押しながらパンを突き刺して離すとパンがくっついてきて、パンの盛ってあるところからめいめいのお皿のところまで運ぶことが出来、目的地で再び押すとパンが離れる、という仕組みになっていて、いつもラヴィーニャが私達にパンをとってくれていた。なかなかおもしろかったので以前ジャガイモ刺しをそうしたようにお土産にしようと思ったのだがもうどこでも見つけることができなかった。既に立派なアンティークになっていたようだ。
 そのディナーの前に席について待っていたときに隣り合っていた私にラビーニャが両目尻を手で上に上げ、狐のような顔をしたので、にらめっこだと思った私は同じ顔をして応戦した。その後他の顔もしたか、同じような顔ばっかりでお互い笑っていたか、今となっては忘れたが、他愛のない遊びでふざけていたら、まっちゃんから「有紀ちゃん、あれって日本人が目がつり上がってるってことを馬鹿にしてる動作なんよ。そんなことされて悔しくないの?」的なことを言われた。
 私には、それでも尚マリウスと結婚したい理由の何割かに「ラヴィーニャの叔母さんになりたい。」というのを占めるくらい可愛いと思っている天使のようなラヴィーニャがそんな悪意をもってそうしたとは思えなかった。自分達日本人でも「上-がり目。下-がり目。くるっと回ってニャンコの目。」なんてことをやる位そのくらいの子供がするには自然な動作だと思えたからだ。
 そう信じていても、もし私がおめでたいのだったら?と思い始めると、そういう私が叔母になったら彼女はどう思うのだろう?とか、この短期間にも何度かテレビで日本のことを取り上げていて好印象を持っているかのようでやはりヨーロッパの人はアジアに偏見を持っているのか?とか色んな思いが一瞬にしてゴチャゴチャになり、混乱し、みんなの前で泣き出してしまうというハプニングが起こった。
 みんなに「どうしたの?」といわれ、変なことを言ってラヴィーニャを悪者にするのも嫌なので、表向きその場は別れるのが辛くて、ということにしておいたがのだが・・・。
 その後マリウスには真相を打ち明けた。マリウスは考え過ぎだと言って、ラヴィーニャにも確かめてくれ、彼女もそんなつもりではなかったと言ってくれたので、私はそれを信じている。むしろそんなことで混乱してしまった自分が悪いと思うくらいなのだが・・・。

 最後の晩餐が終わると、マリウスが折角だから、と、まっちゃんからお土産にもらった西陣織ネクタイを締めてみるべく、ジャケットはないまでも「明日からこんな格好で仕事に行く。」と正装して現れた。それで浴衣姿の私と写真を撮るということらしい。
 最後の記念写真を撮り終えてひとしきり話すとサヴィン達はお母さんの家の方に帰っていった。明日はサヴィンは仕事の都合で空港まで送ってくれることが出来ないのでサヴィンとフェリチアの友達でサヴィンの車を空港まで運転してくれる人を手配してくれているとのこと。サヴィン、ラヴィーニャ、アドリアン、サヴィンのお母さんとは今回は(といえるのだろうか?)これでお別れだ。帰り支度を完璧にし、例によってまっちゃんには「ごめんなさい。」で最後になるかもしれない夜を過ごす。

 7月19日(日)。いつものようにマリウスがパン、サラミ、チーズ、トマトサラダとコーヒーという朝ご飯を用意してくれ兵舎を見下ろす窓辺のテーブルで食べる。この景色、この朝ご飯もこれで最後。(私に関しては、ことマリウスとのことに関してはここに「?」が加わるのだが・・・。私が頑張って手続きをし、彼が日本を気に入ってくれれば「最後」ではなくなるのだ。あくまでも今回の旅での「最後」で済む。)

 朝ご飯を食べ終わってそんな感傷に浸っていたらフェリチアが「our taxi driver!」と言って細身で髭面の男の人を連れてやって来てくれた。
 11時45分発のRO211便に乗るため9時45分には空港に着くために車を走らせてくれる。車の中で、当面にしても別れるのが悲しくて私はずっと泣いていた。マリウスも確か泣いていた。事情がもう一つ判っていないドライバー役の男の人は私達ののっぴきならない様子にびびっていたようだった。
 私達はこの時の別れを納得する為にしきりに「Bye only for now」と言ったり「See you in Japan, next time!」などと言ったりした。その後者を聞いたフェリチアの表情に「そんないい加減なことを言って、ぬか喜びさせて!」といいたげなものがあるのを私は見逃さなかった。そして私は、「そう思われるのもご尤も。でも私はいい加減な気持ちで言っているのではないし、絶対マリウスの来日を実現させてみせますよ。」と心に誓うのだった。また、その時私は誰かに貰ったピンキー&ダイアンのハートをモチーフにしたハンカチを白地にピンクのハートとブルーのハートの2枚、お揃いで持っていてそのブルーの方でずっと涙を拭いていた。そしてマリウスの申し出で、そのブルーの方のハンカチを今度会えるまでの形見として持っていてもらうことにした。
 空港到着後、hugg & kissの別れの儀式を終えるとギリシャと同じくここルーマニアでも見送りの人は空港内に全く立ち入れないので、またしても、あっけない別れとなった。

 逆にそういう風に強制的にあっけなくさせられるのがよかったのか、空港内に入ると頭の中はいかにマリウスを日本に連れてくるか。当面のチェックインをどうこなすか。また、数時間後に着くポーランドのことなどに切り替えることができた。これから後の旅は常にルーマニアと比較したり、ルーマニアを引きずったりすることになるだろうとは思いつつ・・・。