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アテネ空港内に入り、タロム(ルーマニア航空)のカウンターを見つけ、チェックイン手続きをする。相変わらず私達の大荷物(だからギリシャで初めてピアス、ブレスレットといった小さいものを買った以外は、最小限のパンフレット以外は何のお土産も買わずにいるのに!!)は、グランドホステスの人の「眉間に皺」もので(確か一人の一つのスーツケースがいつも36~8kgはあったはずだ。)、これまでビジネスクラスでずっと飛び続けるお得意さん(?)だからなんとか追加料金をチャージされずに済んだが、ここでは危うくチャージされそうになった。貰ったボーディング・チケットを見て、その未だかつてないペラペラさに面食らう。その後、相変わらず軍服姿の審査官のものものしい出国審査を経て、ギリシャの通貨ドラクマを使い果たすべく免税店でギリシャ・ポップス・ベスト・ヒットのCDを買い、待合い室へ。ギリシャとルーマニアは割合行き来があるのか、思ったより人が多く、ほぼ満員だった。そこでインド系の貿易商らしい人が英語で「ルーマニアは初めてか?」と聞いてきたので「そうだ。」と答えると、「きっと嫌いになるだろう。」と、意味深なことを言われた。
いよいよ搭乗時刻となり、飛行機に乗り込む。見慣れたジャンボジェットのボーイング747、DC10、YS11やエアバスではなく,BAC-500って一体何だんねん?という飛行機で(結局British
Aerospace社製らしい。)、さらにこの航空会社では特にビジネス、エコノミーといった違いがないだけでなく、妙にみんな急いで搭乗しようとするなと思っていたら、塔乗券に書いてある謎の数字のようなものは実は座席指定などの意味は持っておらず、何と、早いもん順に席を取っていくシステムで、前の座席の後ろについている、食事などの際に使うトレーの色はほんとにまちまちで、その取付け部分ががとれてたり、丸ごとなかったりすることも珍しくなく、信じがたいことにシートベルトの壊れている座席もあり、後の方に搭乗することになってしまった私の席も、トレーの取付け部分が外れている口であった。コーヒーのサービスがあったのだが、それは配られたインスタントコーヒーの小袋を、スチュワーデスの人の運ぶお湯で溶いて飲んでください、という形式で、とても驚いてしまった。
スチュワーデスの人達はまあ綺麗なのだが、彼の国ではまだスチュワーデスは有力者の子女にしかなれないのかもしれないが、ツンツンしていてお世辞にもサービスがいいとはいえない。ただ、誰に聞いたか「一度も落ちたことがないらしい。」という言葉のみを頼りに、ひたすら早くブカレストに到着することを願った。
願いの甲斐あってか、割合スムーズに到着。ただ、降り立ったところは所々に雑草などが生え、軍用機のような飛行機、また、軍隊の車、そして、私達のよく知っている「つなぎ」を着た人ではなく、ブルー地の迷彩服を来た人達がそこかしこにいて、飛行機からターミナルへ行くバスも「えっ?」と思うような代物で、アテネの空港でワンクッションおいたからこの程度の衝撃で済んでほんとによかった。と思うような、何とも殺風景で軍事的色彩の濃いところであった。
そして、飛行場の中のトイレに行き、その汚さとヨーロッパでは珍しくない入口で陣取っているおばちゃんから買わなければならなかったはずのトイレットペーパーのゴワゴワ度に、また衝撃を受けた。まず、何はさておき現地通貨に両替をする。大体普通の人の月収は100ドルくらいだが、外人相手のホテル代などは外人価格を適用しているので他のヨーッパなみに高い、と聞いていたので、とりあえず100ドルを替えたらそれは33950レイということになるらしく、5センチ位の厚みのある札束になって返ってきてしまい、入れ場所に困った。その後、久々に荷物の審査を女性審査官に受けたところ、私もまっちゃんも一つにまとめていたとはいえ、とにかく大荷物だったため、「10日間の滞在でどうしてこんなに荷物がいるのか?」と、何か商売でもする気では?と不審に思われたが、例の旅程表を見せ、ルーマニアは10日間だが全体で51日間の旅なのでこれでも少ないくらいだ。と説明し、ようやく通してもらえた。結局「困ったらマルボロを掴ませろ。」という手をマニュアル本で読んで知っていて、デューティーフリーで買って備えていたが、使うことなく外に出ることが出来た。
外に出るとそこら中に客引きのタクシー運転手がいたが、約束通り、マリウスが義理のお兄さんであるサビンと一緒にコンピューター・オペレーターのお姉さんがCGでつくったという"YUKI
YOMO ~Marius"という紙をボードに貼って掲げ(まっちゃんの名前はまっちゃんが直前に参加を決めたため間に合わなかったらしいのだが・・・ちょっと申し訳ないような気がした。)、赤いカーネーションを持って待っていてくれ、私達ひとりひとりに歓迎のしるしのその花を手渡しながら「サラモナ(と聞こえたが 実は"Salut
muna.""Kiss on your hand."の意。) 」という言葉と共に手の甲にキスをする挨拶で迎えてくれた。握手や抱擁と比べて何だか古風な感じで、自分が中世のお姫様になったような気がした。
サビンが「贅沢なホテルではありませんが、うちというホテルがあるので、よかったら泊ってください。」と言ってくれたので、迷わずそうさせてもらうことにして、4人でサビンの車の待つ駐車場の方に歩いていると、途中で「ひょっとしてユキじゃあ。」と呼び留められ、見るとルミニッタだった。ちゃんと手紙で「空港にはお姉さんがブカレストに住んでいて、英語のわかるマリウスに迎えに来てもらうことにしたので・・・。」と言っておいたつもりをしていたので、遠くからわざわざご主人と息子さんと一緒に来てくれて申し訳なくも感激し、「ここに何泊かしたらジムニチェア(ルミニッタ達の住むドナウ川を挟んでブルガリアの対岸のブカレストから南に行ったところにある町。)に行くので待っていて!」と、再会を約束して記念撮影をし、別れる。
空港から出ると、胡散臭そうなタクシー運転手とともに目に入ったのが、初めて実物を見る東欧産の車!!旧ソ連の「ラダ」だけは聞いたことがあったが、この駐車場にうようよしているのは一応フランスのルノーと提携している(割にこのごつごつ感は何だ!?)ルーマニア車の「ダッチア」(7割くらい。)と、フランスのシトロエンと提携している(ちょっとはわかる。)同じく「オルシット」で、サビンの車は2ドア・クーペなので一応スポーツタイプということになっているらしい、緑のダッチア。ルミニッタのご主人の車はまだ新しげでなかなかキュートな赤のオルシットだった。ダッチアはルーマニアの先住民族ダキア人の意味らしい。どちらもラテン系の国と技術提携しているのはやはり東欧唯一のラテン系国家である故か?
いつも問題になる例のスーツケースを一つは屋根の上にくくりつけ、もう一つは車内に入れて何とか抱え、明らかに車体が沈んだ状態で、お姉さんの待っていてくれているはずの、サビンのフラットへ向かう。
フラットに向かう途中、「中世の王様がやっていたことを今やらせようとした」といわれる巨大で豪華で、でも悪名高いチャウシェスク御殿があり、その斜め前方に「おお、やはりあったか。」と思ってしまった「SONY」や「Panasonic」の看板があり、そのチャウシェスク御殿の正面に新しい都市計画で目抜き通りにする予定だったとおぼしき大通りがあり、節約のためか水が出ていない噴水があったり、ほんの暫くは「御殿」につろくする建物が両側に並んでいたが、その後はいくつもの建設が途中でストップした状態で放置されたビルを見かけた。資金不足で都市計画が頓挫したというところか?チャウシェスクの独裁が続いていたら今頃は完成していたのか?だとしたら資金集めはどこから?などと色々なことを考えてしまった。オフィスビルになる予定だったのか集合住宅になるはずだったのか、日本とは工法が異なるのか、日本だと鉄骨に当たるであろう形のコンクリートの固まりのが大通りの両側にずらっと並んでいて「古くなっていらなくなって」ではなく、「新しくできるはずが放置されたために」ゴーストタウンの様相を呈していて、「生ものではないにせよ、ここで雨ざらしに置いておいたらまずいんじゃないの?」と思ってしまった。日本では明らかにバブルの頃に計画されたと思われる豪華ビルが崩壊後に完成していたり、更地のまま何にもならずに囲われていたり、かつてはぎっしり店が入っていたテナントビルが今は空になり閉鎖されていたり、という光景は見かけるが、建てかけてそこで止まっている状態というのを見るのは初めてで、強烈に印象の残った。
また、ほんとうの中心部を外れると、道路も轍ができまくり、なんでここをこんなに迂回するのか?と思ったら、マンホールなどの盛り上がりを避けるため、ということがままあり、障害物走さながらであった。そして、その轍がひどくなった、というより、「マンホールは作ったものの、お金がなくって(に違いない。)舗装が出来ていません。」という道のゾーンに入ったら、そこはサビンのような中産階級の人達の暮らす比較的新しく出来た日本でいうところの「団地」だった。その団地の一つ一つの建物は8階建てで、先ほど見た途中で雨ざらしになったビルに目鼻をつけた感じで、外側は何の装飾もなくデザインも感じられない鼠色の固まりのようで、ここにお世話になるのか、と思うと、少し気分が重くなった。
すごい車ですごい道路のドライブを終え、サビンのフラットのある棟の前に車を置いて、上を見上げると、7階の窓から生なりのアラン編みのノースリーブのサマーセーターを着て、おしゃれなショートカットをした、今まで見たことのない可愛らしさの、天使のような女の子が微笑んで、こちらに手を振っていた。それがサビンとマリウスのお姉さんフェリチアの上の子供のラヴィニアだった。それまでこの殺風景な建物に入るのを少し恐れていたのだが、一輪の花のような彼女を見て、早く7階まで上っていって彼女に会いたいと思うようになった。
ひょっとしてずっと階段?と思ったら一階の奥の方に、とても小さく、昔の映画で見るような建物側の扉と昇降するエレベーター側の扉の開閉がともにマニュアルで、中に裸電球が一つだけ点っている、乗るのに勇気のいるエレベーターがあり、それで荷物と人を2度に分けて上がった。エレベーターを降りて、右手の方に目指すサビン達のフラットがあり、そこでフェリチアとラヴィニアが待っていてくれた。
フェリチアは小柄だけれどもしっかり者、といった感じの美しい声の女性。ラヴィニアは近くで見るとさらに可愛くて、77年当時のルーマニアチームの女の子同様、耳には金のピアスが光っていて、先程サマーセ-ターだと思っていたのはウエストが少し絞られたミニのワンピースで、そのすっとした体形と相まってとにかくお洒落でかっこよかった。
フラットに一歩入って、まず、驚いたのが、ここでは私達お客さんは脱がなくてもいい、といわれるが、みんなは玄関脇で靴を脱いでいたことだ。「東」だからかなあ。と思った。それと、初めにロイテのクリスチャン宅に伺ったときもそうだったが、ここも、その日本の古い団地より殺風景な外観と比べて、インテリアは住む人の好みにもよるのだろうが、ずっと素敵で、石造り系のためか、壁も厚く、隣のことなど気にならず、思ったより、ずっと広かった。
まず、今日から私達がブカレストにいる時には泊めてもらえるという、入って右奥の子供部屋に案内されると、生成りのレース編みのベッドカバーの趣味の良さが、これからの居心地のよさを期待させた。そして、その左手が今はジョージアナという女の人に貸してあげているという、彼等の寝室で、子供部屋の次の間がトイレ、お風呂、洗面所が一体となった一室、その隣のキッチンを経て玄関からすると一番左の突き当たりにダイニング兼リビング兼応接間になった部屋があった。
子供部屋に取り敢えず荷物を置いた私達は、その応接間に案内された。そこは、典型的なルーマニアの家具で設えられ、部屋の奥の棚の中央には昔なつかしいダイアルをカチカチいわせてチャンネルを合わせるタイプの白黒のそこそこ大きいテレビがどーんと鎮座していて、小さいが美しいシャンデリアの下のテーブルには、チーズやパン、トマトサラダ、ハム、サラミ、といった前菜が臙脂色のルーマニアクリスタルのグラス類と一緒に美しく並べられていた。
こちらの習慣ということで、こちらの名産であるプルーンの蒸留酒・ツイカを小さなリキュールグラスに入れ、「ノロック!」と言って乾杯をし、食事が始まった。正直なところルーマニのお料理はあまり期待していず、この旅の初めに、「夜はハム・ソーセージ類とパンのみでもオーケー。」のゲルマン系の国に行っていたこともあり、この豪華な前菜がこの日のディナーの全てだろうと思い、お腹も空いていたのでバクバアク食べたところ、実はその後、スープ、鳥のオーブン料理とフライドポテト、と続き、なんとサヴィンのお母さんが用意してくださっていたという手作りのケーキのデザートまであり、ほんとにお腹が一杯になり、全部がとてもおいしかった。やはりルーマニア=東欧唯一のラテン系の国だから料理にはこだわるのだろうか・・・。サヴィンとマリウスは英語ができる上に、サヴィンは例えばここに来る道々、道路のせいで面倒な運転を強いられる場面で「Victory
of Socialism!!」と叫ぶ、といった、シニカルな冗談をバンバン飛ばす人で、マリウスもそれにどんどん突っ込むので、会話も面白く、いろいろな意味で満腹になったところで、サヴィンとフェリチア、ラヴィニアはサヴィンのお母さんの住む家に帰ると聞き、驚く。聞けばここは普段は週末使っているだけで、週日は二人が働きに出ている間、子供を見ていてもらう都合などもあり、そちらの方に住んでいるということだった。ほんとうに色々と何から何までお世話になって楽しいルーマニアでの第一日目を過ごさせてもらうことが出来、お礼をいって、今日のところは別れる。
その後、マリウスと私達で日程表を見ながら、どういう周り方をするのが一番いいか、などなどを話しつつ、明日以降のルーマニアでの旅程を計画する。その時に、ギリシャでの子供達の選ばれ方などを聞いて驚いたこともあり、そもそもルーマニアの場合、きっとキャンプに来ていた人は当時のエリートの子弟だろうから、革命後は立場が逆転して大変だったのではないか、と思ったりしたことを、正直にぶつけてみると、自分は小学校で成績がよかったため選ばれたが、むしろ父親が共産党員ではなかった為、本来は前の年に派遣されるはずが、先に共産党員の子弟が派遣されることになったため、後回しになった話や、実は、あのキャンプ当時のルーマニアチームのメンバーのうち、ルーマニア系のルーマニア人はマリウスとルミニッタだけで、それも遠く離れた場所から選ばれたし、もう一人の男の子イオンはドイツ系。もう一人の女の子エミリアはハンガリー系で、それも「ルーマニアでは色々な民族が、仲良く暮らしています。」ということのプロパガンダのために、作為的にそういう組み合わせになっていたこと。また、一番驚いたことに、その子供達を引率していたリーダーのイオンが「セキュリティー(人の行動を監視し、民族衣装がバラバラだったのか、とか、だから子供のイオンはドイツ語が喋れて、革命前にドイツに亡命することが出来たのか、とか、だから大人のイオンが英語もドイツ語も出来ない不思議な人なのに、リーダーになったのか、というこいちいちお上に密告する秘密警察)」の人だったこと、を教えてもらい、驚くと同時に、それでナショナルデーの時のみんなのとなどを納得した。その話以降、キャンプの思い出話に花が咲いた。
そして、日程はというと、まず明日は準備のため、一日ブカレスト。その翌日にエミリアのいるバラオルトに行き、そこで一泊してブカレストに戻り、その次の13日にルミニッタのいるジムニチェアに。そこで2泊し、次にマリウスのお母さんの体調が今一つということと、ルーマニアに夏来たからには絶対に行くべし!ということでマリウスが勧めるので、ブレイラには行かず、黒海沿岸に行くことに。そこで2泊し、ブカレストに帰り、また2泊してポーランドへ。という計画になった。あの大荷物を持って、どうして移動するかを考え、やはり車が一番か?ということになる。マリウスは運転免許を持っていないので、ナビゲーター兼用心棒兼通訳として、ずっとついて来てくれることになった。けれど、と、いうことは私達が運転するのだろうか?
まあ一応いろいろ計画できた、ということで部屋に戻り寝ることにする。ところで、マリウスはどこで寝るのだろう?と気にしていたら、今まで話していたソファを引き出すと、実はダブルくらいの大きさのベッドに変身することが解り、この部屋は、寝室にまで早変わりできるということを発見した。そういえば、初めに尋ねたクリスチャン宅でもソファーベッドだったし、日本にいると外国といえばまず「アメリカ」というイメージがあって、そこそこリッチになったらゲストルームやゲスト用のバスルームがないと・・・という「憧れの暮らし像」があるように見受けられるが、そもそも国土も狭いし、しかも新しく開拓する余地はあまりないわけだから、ヨーロッパの合理的な暮らしの方こそお手本にしたほうがいいのではないか、と思った。というか、ここで一つの部屋がいろんな用途に使われている様子は一つの畳の部屋がちゃぶ台があればダイニングルームになり、それをのけて布団を引けばベッドルームになるという昔ながらの日本の暮らしと似ていて、「私達ってそもそも合理的な暮らしをしてたんだ。」と気付かされた。
一夜明け、7月10日。昨夜にルートを決めたものの、交通手段はまだはっきりとは決めていなかったのだが、やはり荷物を持ってそのルートをまわるには、レンタカーを借りるしかない。ということになった。とはいえ、ずっと案内してくれるというマリウスは免許を持っていない。と、いうことは、運転するのは私達ということ?!今回の旅のため、どこかで車に乗れたほうがいいこともあるだろうと国際免許を取っては来ていたが、まさかそれをルーマニアで使うことになるとは思ってもみなかった。いきなり左ハンドルの車を、あの道路状況で操らなければならないわけである。それで、しかも「あの車」を運転するのは、毛頭自信がない。
そこで、贅沢かも知れないけれども身の安全のため、「トヨタかメルセデスの、日本では二人ともオートマに長いこと乗ってるので、できればオートマを借りたいです。」と言うと、朝から色々とコネを持っているらしいジョージアナが色々なところに電話してくれたが、メルセデスの場合殆どが運転手付きという条件で貸しているらしく、数々当たってみた最後にやっとトヨタを貸してくれるところを見つけたが、オートマというものはどうも西でも東でもヨーロッパに殆ど生息していないらしく、「左ハンドルのマニュアルのトヨタ」を運転することに。そして、店まで車を見に行くと、それは何と、ピカピカの白のトヨタカローラだった。日本では、私は今は亡き"いすゞジェミニZZハンドリング・バイ・ロータス"を転がしていたし、まっちゃんは赤いアウディに乗っていた。その私達が、新車だけれどもちょっと前のモデルのカローラを、外人価格と邦人価格の二重価格がまかり通るこの国で、結構なお金を出して借りるのである。何だかすごく感慨深いものがあった。
さて、明日からのドライブに備え、早速路上訓練をしなければならない。サヴィンをインストラクターに、少し車通りの少なくなる中心から少し外れた空港の近くの道で、18歳で免許を取る時以来のマニュアル車にトライする。しかもシフトレバーは右手で扱わなければならない。半クラッチがどうだったかなんて、ほんと、久しぶり。さらに何かあったら、マリウス、サヴィン、フェリチア、まっちゃん、みんな道連れだ。半クラッチからアクセルを踏み込む感覚を甦らせるまで、たびたびあの教習所での最初の数日のように、エンストを起こしてノッキングなどさせながら練習する。ただ、右手が利き手なのと、やはり右側通行では左ハンドルが理にかなっているのと、きっとカローラは良い車なので割合早く慣れることができた。まっちゃんは日頃右ハンドルとはいえドイツ車に乗っているだけあって、ウインカーの代わりにワイパーを始動させてしまうなんてこともなしに、さらに早く慣れた。私は自分が免許を取る時に、どうせマニュアル車なんか運転しないので、早くオートマ限定免許が出たらいいのに!と思っていたが、それだとこんな時何の役にも立たないので、やはり、取るなら苦労してでも普通の免許だ。私はこれまで、教習所での初めの数時間、どう考えても自分よりもアホそうなマニュアルの車に乗る経験だけが自分よりもあるだけの教官に、半クラッチの感覚が判らなくってエンストを連発させては、罵倒された経験を人生最大の汚点だと思っていたが、それで今日があるのならと、納得できた。
トレーニングの甲斐あって、何とかなりそうな感覚をつかむと、またブカレストの中心部へ戻り、町を案内してもらう。ここではマガジンというのは百貨店のことだが、並んでいる品物は驚くほど少なく、暗く、エスカレーターも動いていないので、唯一の上に行く手段であるそれは、却って段差のある階段と成り果て、苦労して上らなければならない。一階にバッグ売り場などがあるが、どれもこれも質的にもデザイン的にも今一つだった。
フェリチアがそのうちの一つ、10cm×15cm位で2cm位のまちがついた黒に黒で点々と地紋がついている合成皮革というよりビニール張りに近いバッグを手に取り、「これ好き?」と尋ねてきたので、彼女が自分用に買うものだろうと思うと下手なことを言えない、と思い、二人とも「なかなかいいわね。」と言ったところ、「じゃあ、二つ下さい。」ということになってしまい、マリウスが私達に買ってくれた。その他にもレコード屋(もちろんアナログのレコード盤が売っている。)で、ガーシュインの「ラプソディー・イン・ブルー」を見つけ、「この曲は好きです。」とポロっと言ったら、「じゃあ、買ってあげましょう。」に危うくなりそうになったり、この国民の平均所得が非常に低い国で、何かを買ってあげましょうと言われることになるとは全然思っていなかっただけに(すみません。)、気持ちだけでも本当に嬉しかった。
ショッピングを終え、サヴィンのお母さんのお家へ行く。この時、ラヴィニアの弟で2歳でお目々パッチリでくりくり坊主の「リトル・マリウス」こと、アドリアンに初めて会う。ほんとに見るからに、悪戯坊主という感じで可愛い。そして、サヴィンのお母さんの手料理を味わう。ほんとに美味しい!!いつも美味しい。この後は、フラット前より"トヨタ"を置いておくのに安全そうなここに車を置いて、フラットに戻り、明日に備える。何と言っても、日本でも未経験の、1日で250km(しかも半分は山道!)のドライブを控えているのだから。