7月19日(日)リブニック→ワルシャワ約500kmを車で迎えに来させてしまう。

7月20日(月)リブニック観光。クリストフのCDショップへ。

7月21日(火)リブニックアウシュビッツヴェリチカクラクフ→リブニック

7月22日(水)リブニック→ワルシャワ→コペンハーゲンへ          

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 これからの旅は10日間で結婚を決心するという大事件が起きたルーマニアを引きずるだろう、と多少不安に思いながらも、この「気持ちとしては確かだが実際どうなるか判らないこと」をこの時点で言ってしまったら成るものも成らなくなりそうな気がしたので、このことはこの旅が終わるまで誰にも言わないでおこうという方針を固め、予めギリシャからルーマニアに向かう飛行機の中で開いた『ルーマニア語の入門』に代わって用意していた『ポーランド語の入門』を機内で眺めて「ここでは「はい」がtacか。これってスウェーデン語の「ありがとう」と同じだし混乱するな。」などと10日間親しんだラテン系のルーマニア語と全く違う言語体形の言葉を予習しだすと、不思議とこの旅を始めたときの気持ちに戻り、これから会う人、行く国への興味が戻ってきた。
 また、ルーマニアからポーランドに向かう飛行機は例によってTAROMルーマニア航空だったので早い者勝ちの自由席だったりネスカフェの粉末の入った袋が供されるような機内食だったりしたが、よく行く時は長く感じた道のりも帰りには短く感じるのと同じように一度体験していれば別にどうって言うことはなく、気のせいかスチュワーデスの人達も今回の人達の方が愛想がいいように感じられた。

 そうこうするうち飛行機は予定どおり13時30分、ワルシャワ空港に到着した。ここのところ、ギリシャ、ルーマニアと空港がどんどん殺風景になっていくのに慣れていた私は「とりあえず最悪のことを想定しておいたら実際に起こることはそれよりはいいだろう」という最悪想定主義に則ってワルシャワ空港もきっとブカレスト空港とほぼ同じだろうと予想していたところ、ワルシャワ空港はブカレスト空港より「まし」どころではなく、新しくなったばっかりで、ミュンヘンの空港を小さくした感じといえばちょっと言い過ぎかも知れないが、とても機能的で美しかった。入国審査の場所の横にあった電話にはどれもブランド名なのか何故か『悟り』という日本語が書いてあるのが印象的だった。ここでも日本人の評判はいいのだろうか?
 渡航者だけが入れる空間から出てみると、そこは久々に私達に馴染みのある出迎えの人達が入れる到着ロビーでカフェテリアなどもあったりして、私達が普通にイメージする空港だったので逆に驚いた。久々にある種の心地良さを感じると同時に、今となってはルーマニア人贔屓になっている私としては自由化の後「国により経済格差が生まれている」とは聞いていたが、それをいきなり目の辺たりにしてしまったような気がして少し悲しくなった。ともあれ、それを考えて落ち込む間もなくクリストフがお父さんまで一緒に来てくれていたのにすぐに会えて、再会を喜び合うのだった。

 クリストフはジュニアカウンセラーとはいえ、殆どポーランドチームの子供達とだけ一緒にいたので「お世話」になった覚えのあるクリストフ以外の(!)ジュニアカウンセラーと違って印象が薄く、残っていた唯一の印象は「ふさふさとした金髪の巻毛のわりと可愛らしい少年」ということだった。が、送ってもらった写真で予想はしていたとはいえ、ほんとうにその面影は見事に無くなり、今では髪も少なくなり、金髪というよりは金茶色くらいの髪で、痩身で長身の人で、さらに口髭を蓄えていることもあるのかキャンプ当時の印象では他のジュニアカウンセラーより幼い感じを受けていたのに、今ではこれまでにあったどのもとジュニアカウンセラーよりも老けて見え、この15年間に何があったのか?という感じで驚いたが、流石に「老けましたねえ。15年の間に何があったのですか?」と聞くわけにもいかず、それはついぞわからなかった。ただ、初対面のお父さんが頭の真ん中は禿げ上がっていて、クリストフと全く同じ背格好な事を見れば、ただ単に「この親にしてこの子あり。」ということなのか、とも思えるが・・・。

 さて、早速駐車場に行き、お父さんの車だという旧ソ連の車ラダに乗る。既にルーマニアのダッチア等を見ているので一見しただけではそれほど驚きはしなかったが、荷物を乗せようとすると、一件ボンネットに見える部分がトランクで、しかも横向きに開くのにびっくりする。何とか荷物を乗せて出発!するのであるが行けども行けども着かない。途中でレストランに立ち寄り、豚の衣焼きを食べる。クリストフ父子は今日初めて物を食べると言っていた。恐縮。
 車窓から見える風景は行けども行けども緑の小高い丘が続く。丘というものにあまり縁がない日本人の私から見れば何となくここポーランドが周りの色々な国に翻弄されてしまったのも判るような気がする。自然の城壁がないのだから・・・。などと考えているうちいつの間にか私もまっちゃんも車中でぐっすり寝てしまっていて、起きたときには日の長いヨーロッパの夏も少し暮れかかっていて、もうすぐ目的地、リブニックだった。と、いうことは・・・と、思うとますます恐縮する。クリストフ父子の住むリブニックの町はこぢんまりしている感じ。そうこうするうちにお父さんのフラットのあるアパートに到着。荷物を降ろす。ほんとうにお疲れ様でした。

 部屋の方に行くと、17歳のおじいさんというコリーとコッカースパニエルの合の子のような雑種の犬と、クリストフの弟さん(若くてハンサム。紅顔の美青年系。キャンプ当時のクリストフともまた違う感じ。)が出迎えてくれた。ダイニングルームに飾ってあるお父さんがバチカンのローマ法皇に謁見しているところの写真が目についたので聞くと、お父さんは熱心なカトリック信者で数年前に教会からのツアーで行ったとのこと。また、他にお母さんも一緒に写っている写真もあったので聞くと、お母さんは7年前に亡くなられたとのこと。
 その頃お父さんが何となく台所にいらっしゃるのでは?と、思っていると、何とさっきまで運転されていてどんなにか疲れてらっしゃるでしょうに、奥さんを亡くされてから料理を始めたというお父さんが私達のためにポーランド料理を用意してくださっているではありませんか!驚きと共に感激する。
 メニューは久々に食べるホワイトソースを使った料理であるポーランド風カネロニ(ギョウザ)とソーセージとチーズのグリル、トマトときゅうりのサラダ、ポテト・ケッパー・グリンピース・人参のマヨネーズ味サラダ、キャベツの酢漬け。そして、久々の紅茶。でどれもおいしかった。ここのテーブルクロスやカーテン、絨毯は白に薄茶色から茶色のグラデーションで統一してあり、ルーマニアで深い赤地に白、黒といった組み合わせに馴染んだ私からすると、気のせいか同じ東欧といっても全体に切りたった山と丘の違いといおうか、正教徒とカトリック教徒の違いのようなものを感じる。西に来たという感じがした。

 食事の後はクリストフのフラットに移ることに。クリストフの車はポルスキ・フィアットといって、フィアットと提携したポーランドの車だった。(ルーマニアでのルノーと提携したダッチア、シトロエンと提携したオルシットのように「どこが?」という感じであるのがその特徴だったりするが・・・。)その窓に貼ってあるステッカーの黄色地に黒で「music Gallery」と書いてあるのが気になって聞くと、クリストフのお店のCD屋さんということだった。(ルーマニアではまだまだLPかテープかという感じだったのにここではCD!)また、クリストフはジャズが好きでポーランドのミュージシャンでオリジナルのCDをノルウェーで制作してこちらで売ったりもしてるらしい。また、車中で「ほんとはこれから友達のところに行くことになってたのだけれど・・。」という話になり、さすがに疲れているのでそれはやめてもらうことにした。(ずっと運転していたクリストフは大丈夫なのか?)
 フラット到着。一人で住むには丁度いい感じの部屋だ。早速、オリジナルCDを聞かせてもらうことにする。彼等のプロデュースした、オリジナルCDは今のところ2種類で、ジャケットのデザインもなかなか格好良く、サウンドの方も一枚目の方は「日本やアジアをイメージ」ということでいきなり尺八の音から始まったりして、もう一つの方もかなり前衛的で、「へえ!」という感じだった。その後クリストフは特に疲れているはずなのに、ステレオのあるリビングでCD制作の話や自分も弟さんもノルウェーで出稼ぎして資金をためた話、などなど色々を遅くまで話した。その後私達はそこのソファーが例によってベッドになるのでそこに泊めてもらうことに。クリストフは隣の自分の部屋に移動した。

 かくしてルーマニアでの涙の別れからポーランドに至る長い一日が終わった。「ルーマニア後」は腑抜けのようになってしまうのでは?というのは杞憂に終わったが、常に特にここが同じ「東欧」と分類されるポーランドだからかルーマニアと比較する自分がいることにも気付いた。それにしても、日本で貰った手紙に「迎えに行ってもいいけれど、この電車もある。」と書いて来てくれたこともあったのだが、言葉が不安なのとリブニックに直行できる電車がなさそうだったのと荷物が大きなものになりそうだったので「できれば車で迎えに来て貰えると有り難い。」と返事をして、承諾してくれたからこうなったのだが、今思えば何と片道車で5時間も掛けて二人で交代で運転して迎えに来てくれたのだった!(だからお父さんまで借りだしてしまったのだ!!)そして殆ど休む間もなくまた5時間運転!1日のうちに10時間運転!そして私達の方は寝てしまい・・・。確かに地図でもワルシャワとリブニックではだいぶ距離がありそうだなあ、とは思っていたけれども「それじゃあ私は名古屋の人に東京まで車で迎えに来いと言っていたわけ?」と思うと罪悪感にさいなまれつつも、それでも行ってやろうと思ってもらえた上にそのことを恩に着せる素振りも見せないなんて、何て親切な人達何だろう、と改めて感謝するのだった。

 一日明けて7月20日(月)。今日はここリブニックを観光する。
 まず、先程まで私達が寝ていた場所が食堂に早変わり。パンとハムとチーズ、トマトときゅうりのサラダの朝食を取る。ここのパンはドイツに近い感じ。カイザーロールっぽい物と、ちょっと全粒粉入り程度の黒っぽいパンの二種類が出る。ハムとチーズの中のマッシュルーム入りのものが特に美味しかった。腹ごしらえをしていざ出発。まず、昨夜から話題のクリストフのCDショップに行く。クリストフは朝から黒地に白でステッカーにあったのと同じロゴの入ったTシャツを着ていて準備万端。件のポリスキ・フィアットに乗り、向かう。
 正面に町の中心の二つの尖塔を持つ(ということはゴシック建築か)教会が見える通りに面して建つ大体が2階建てから4階建てくらいの古くから建ってそうな石造りの建物のうちの一つの一階ににクリストフの店はあった。と、いっても昨夜行くかも知れなかったクリストフの女友達とスペースをシェアしているということで、入ってすぐに彼女のブティックがあり、その奥に彼のCDショップという作りになっていて、店の名(music gallery)の通り全体が一つのギャラリーのようになっていた。
 最初に通ったブティックの方が思ったよりも格段にセンスがよいのが気になりながら、まず奥のスペースへ。クリストフの店から見る。古くからある石造りの床、白い壁、黒っぽい木の幅木や桟のある部屋の左側から正面にかけて、さながら現代美術のオブジェのように全体がステッカーと同じ黄色に塗られたスチール製のCDラックが置かれ、その正面の窓はステッカーでふさがれていた。向かって右側は黒いカウンターの様になっていてそのうえの壁にはマイルス・デービスとキース・ジャレットとどこかのジャズ・フェスティバルのポスターが貼られ、それがスポットで照らされるようになっていて、一番端にはオーディオ類が置かれ、レジなどがあり、今日は昨夜は挨拶をしただけだったクリストフの弟(24歳)がそこに居た。CDはまだそれほどの枚数ではなく、手前がPOPS、奥がJAZZという風にジャンル分けされ、角の特等席に「PROMOTION」ということで彼等のレーベルである「POWER BROS.」の2種類のCDが沢山並べてあった。この国でも英語表記が「今風」ということなのだろうか。もちろん彼等のレーベル名は世界に売ることを考えてのこともあるだろうけれど・・。それに、ここにCDしか置かれていないのも興味深かった。 ルーマニアのみならず、この3月訪れたパリのヴァージン・メガストアでもイタリアの町でも主流はまだまだLPだったから、日本がCD一色になってしまったのは機能を追及したり、新しいもの、小さいものが好きな国民性。またそこをうまくついて物を売るメーカーが国内に多数あるからか、と思っていたからだ。
 また、夕べの会話で予想していたものの、ここにウイーンの町で演奏していて気になっていた「ポーリッシュ・フォーク・バンド」のものはやはりなかった。彼等は自主制作のものなのかも知れないけれどもお金を入れてもらうギターの箱の横にCDを置いて売っていたのだが、きっとポーランドに行けば色々と買えるだろうと思い買わなかったのを後悔する。日本と同じで外国人が日本に期待する音楽と国内でポピュラーな音楽は違うということなのか・・・。
 もう既にPOWER BROS.のCDはゲットしていたのでクリストフの店は挨拶だけで後にすることにして、先程から気になっていたクリストフの友達イオラのブティックを覗きに行く。今日はそのオウナーであるイオラはいなくて若い店員さんが一人で店番をしていたのだが、とにかくセンスがよいのに驚いた。マネキンを平面にしたような木製のハンガーに掛けるディスプレーの仕方もかわいかった。が、服は一様にサイズが大きそうだったのでのでパスして、特に可愛いものが多いアクセサリーを買うことにして、手が小さくて指が太短い私は滅多に指輪を買うことはないのだが、今でも人に誉められることのある部屋を装飾する鏡のようなデザインの銀色の枠に(本物のシルバーとは思えない)楕円形のオニキス(もどきだと思う。)が入り、右下に一つ丁度いいバランスのバロック真珠(もどき)が入った指輪を買った。満足!

 さて、通りに出て正面に見える教会に向かう。そこはリブニックで一番大きい教会で、その前の部分には車が入れないようにゼブラゾーンになっていて、その上には沢山の鉢植えの花が置かれていた。先程も書いたが教会は煉瓦造りで真ん中に小さな尖塔があり両側に左右対称に大きくて高い尖塔がある。内部に入ると天井が非常に高いことと、その全ての柱や梁(というのだろうか、この場合でも)にずっと積み上げたレンガが使われていることに圧倒された。
 そういう古い建物があるかと思うと、何もなかったら殺風景だろうと思われる白い箱型の銀行の建物の外壁にモダンアートっぽく(そこがポイント!悪趣味ではない。)札束のイラストが描かれているのがあったり、新しいプロジェクトで古い町並みにも合うように考慮された建物群があったり、小さな田舎町だろうからとあまり期待していなかったのに町並みがなかなか面白かった。昔は設計の仕事もしていたクリストフが案内してくれるからかもしれないが・・・。他にも一昨日にオープンしたばかりのパフューメリーや文房具屋を見たり、クリストフ宅で使っているのを見て「使える!」と思った「ティーマット」(ランチョンマットの一周り小さくて薄手のやつ。この辺りで典型的な、ということと、合わせやすさから生成りと薄茶色のチェックの織り模様のものにした。)を買った。この辺は琺瑯製品の産地らしく、懐かしいような食器やお鍋類が沢山売っていた。ガラス製品も欲しくなるようなものが一杯あったが前途を考えて断念。そういえば昔「Afternoon Tea」でポーランド製のワイングラスを買ったっけ。途中で食べたアイスクリームも美味しかった。

 と、殆ど期待していなかったのにリブニックで色々買い物をすることになるとは、と、驚きつつ満足して、お昼を食べるためにお父さんのフラットに。
 ここポーランドではお昼が正餐で、大体2時から3時頃にいただく。今日もお父さんが私達のためにご馳走を作ってくれていた。飲み物としてカシスのシロップ漬けで作ったジュースが出され、ヌードル入りスープ(Rosol z makaronem)に始まり、一見マグロかと思った豚のソテーのカリフラワー添え、ふかしたジャガイモのパセリ掛け、赤キャベツの酢漬け、トマトサラダと続き、お腹一杯になった。

 食事の後暫くしてクリストフのフラットに移動。その途中の別のフラット前の芝生の部分にリカちゃんハウスを巨大にしたような子供のお遊び用のテントが3つほど並んでいて女の子達が(多分)ままごとをしていて目についた。それぞれ描かれている窓の形や窓のしたに咲いている花や、屋根のタイプや色などが違って面白かった。後で行った家具と家庭用品の店に行ったときにも売っていて昔リカちゃんハウスの帝王だった私としてはそそられたが幾ら折り畳み式とはいえ、子供達がその中で自由に遊べるサイズなのと、口実にできる子供もいないので断念した。

 クリストフのフラットに戻った後はたいして休憩もせず、ドライブへ。散策用の道が整備されていて池や川もある湖の近くの森へ。その森の入口には16世紀頃の小さなお城があったが、外壁が剥がれ、土台の煉瓦が剥き出しになっていて、よくみると第2次大戦中の銃弾の跡まで残っていた。修復しようにも予算がなかなか回ってこないらしい。
 森を出て暫くいくとクリストフがこの辺りの典型的な型だと教えてくれた家があった。レンガ色の瓦の切り妻屋根で煙突が真ん中に二つ有り、正面に見える窓には蔦が絡まり花が咲き、二階は屋根裏のみで側面は三角と四角を足した五角形をしていて絵に描いたような「おうち」の形だ。そうそう、素材感が違うのと、テントとしてもっとも作りやすい形なのでピンと来なかったが、先程から気になった「おうち」は装飾を含めて正にこれを縮小したものだった。こういう一軒家を持つのがこの辺りの人の夢らしい。
 さらに歩いて反対側の森の入口にいくと、そちら側には古い教会が建っていた。中心街で見たように尖塔が二つの煉瓦造りではなく、石造りでレリーフ以外は平面的な2階部分までの上に六角形の時計塔が乗り、その上に銅製の底が六角形の丸みを帯びた屋根が乗っかり、さらにその上に小さな六角柱が乗っかり、その角から柱が立って、さらにその上に先程の屋根を小型にした物が乗っかり、その中心から空に向かって尖った先端が金色の球の形をした魔法の杖のようなものが乗っかり、最後にてっぺんに金色の十字架が乗っかっている、というもので、ルーマニアのエミリアに案内してもらったバラオルトのカトリック教会と似ていた。ここを過ぎると普通の民家が並んでいる。これから8時にみんなが集合するブティックのオウナー、イオラ宅でのガーデンパーティーに向かう。

 それから程なくしてイオラ宅に到着。ガーデンパーティーをするというだけあってなかなか大きなお家だ。
 庭には既にウオッカ、オレンジジュース、ワインといった飲み物類やグラス。お皿類とナプキン。それに見るからに美味しそうな巨大なソーセージにマスタードやケチャップ。マヨネーズで和えたサラダ。が白いテーブルの上に用意され、初めて会うイオラが迎えてくれた。
 予想通りのような、違ったような、一言で言えばちょっと魔女っぽい、長身で顎の下くらいまでの金髪を変形ボブでソバージュにして、店に売っていたものとは少し違う雰囲気のいわゆるヒッピーっぽい、インドとか東南アジア風の絞り染めの貫頭衣的な半袖のワンピースを着ていて、エスニック調のアクセサリーをつけた女性だった。
 この家は彼女の実家で、ここの2階を自由に使っているということで、中も見せてもらったらとてもお洒落なインテリアだった。大人の優雅な生活という感じ。意外にも11歳の息子さんがいるらしく、今回はサマースクールに参加中で会えなかったが、普段は息子さんと2匹の黒い犬と一緒に暮らしているということだ。
 そうこうするうちに、他の参加メンバー(名前は忘れたが)もぼちぼち集まってきた。一人はいつもイオラの隣にいたがっしりした長身の男性でちょっと額が後退していて黒い髪に黒い口髭の人(イオラが魔女っぽいからというわけでもないがなんとなくアダムスファミリーのお父さんぽい感じがする人だった)と一番普通っぽい、先にイオラの店でもちらっと会ったフランスに留学中(でも、結婚していて子供もいると聞いた。)の女性。そしてクリストフの弟だ。みんな生まれも育ちもリブニックでしょっちゅう集まる仲良しだということだ。
 もうそろそろ8時だというのにまだ日がある。バーベキューの始まり始まり!ヨーロッパの夏に外で夕飯を食べるのは本当に気持ちがいい。ここのソーセージは日本で「ポーリッシュソーセージ」という固有名詞で売られているものがあるくらい、ドイツのものとはまた一味違って美味しい。また、飲み物の中で特筆すべきはこの辺りの名産のウオッカ「スミルノフ」。さすがと言うべきか巨大なボトルにディスペンサー付きで登場していたのでみんなよく飲むのかと思っていたのに、イオラとまっちゃんは専らpiwoことビールで、飲んだのは「折角だし・・」ということで飲んだ私くらいだった。誰もお連れがいないので、仕方なく私は次から白ワインに移行した。
 色々なことを話すうち、イオラが「日本の着物が見てみたい。」といったことから「最もカジュアルなものなら持って来てるけど。」というと、「是非見せて!」ということになり、件のパリ留学中の女性がどうしても今日中にパリに帰らないといけないので10時には車でここを出発しなければならない(車でパリに行けるという事実。また、「行こう。」という発想。地続きはいいなあ!でもワルシャワ--リブニックが5時間として、一体どれくらい掛かるのだろう?)ので、それに間に合うようにクリストフのフラットに大急ぎで戻り、着替え、引き返すとみんなに大歓迎された。ちょうど私の浴衣が絞り染めのものだったので、イオラの着ている絞りとの違いも判ってもらえた。
 そろそろパリ行きの女性が出発しなければならない時間になってきた頃に、一緒にパリに帰る男の人が(一番普通の女性の彼かご主人はやはり一番普通の感じの人だった。)さらにこのメンバーの不思議度を高めることになるイオラ曰く(というところが既に凄すぎる。)「シャーマン」なカップルとともにやって来た。そのカップルの、男の人は三編みをして放したようなウエーブの黒っぽい髪に口髭でジプシーが入ってる系の顔、女の人はふくよかな体型と顔で髪はソバージュぐらいの大きさのウエーブでアフロヘアボリュームを出したような独特な雰囲気で、男の人の方が民芸品っぽいギターを持ってきていたので、その後パリ移動組が出発するまで彼の伴奏でみんながポーランド民謡の主に船乗りの歌(ところでポーランドって海に面していたかしら?)などを歌って盛り上がった。パリ組の出発を見送り、後片付けの手伝いをし、再会を誓ってお開きとなった。小さな町の仲良しの集まりとはいえ、クリストフの職業柄か、現在のクリストフだけを見たらとてもそういう風には見えないのだけれども(?)知的でアーティスティックな方向に洗練されたしかも"でかい"人達に囲まれて結構緊張した一夜だった。

 7月21日(火)。今日が実質的にポーランドの最終日なので、少し遠出する。京都から神戸に行き、大阪により奈良を回って帰るような感覚か。RybnikからOswiecim、Weliczka、Krakowと周り、Rybnikに帰るというコース。今回OswiecimもKrakowも行けるとは思っていなかったし、Weliczkaに至っては全然知らなかったので、この機会に連れていってもらうことが出来てとても嬉しかった。

 まずOswiecim(オシフィエンチム)に行く。ここは国立オシフィエンチム博物館があるところだ。そう。それは知る人ぞ知るところ。クリストフに「行きたいか。」と聞かれて「行けるのであれば行きたい。」と答えて行けるようになったところだ。それとは、あのナチス・ドイツの蛮行で悪名高く、『アンネの日記』などにも出てくる"ガス室"のある元アウシュビッツ収容所のことだ。
 私は今回の旅を前に各地のガイドブックなどを参照する前は、その場所はドイツにあったと思っていて、ポーランドにあるとも、まだ残っているとも思ってもいなかった。クリストフはリブニックから行けない距離でもないのでこの国を簡単に訪れることの出来ない者への礼儀として一応尋ねてもくれたし、連れて行ってもくれたけれども、本音ではあまり行きたそうではなかった。
 一時間半ほど車を飛ばしたらそこはあった。当時からあったものかどうか判らないが、駐車場の周りには芝生が植えられ木が植わったりしているし、前方に見える建物も普通の屋根がついた煉瓦造りの建物で、もしも左奥の方に有刺鉄線が貼られた建物の側に曲がった鉄柱が立っていなかったら一軒当時としては何の変哲もない事務所と工場に見えるかも知れない。ただ、普通の工場にしては建物の大きさに対する煙突の数が多すぎるのかも知れないが・・・。
 コンクリートの打ちっぱなし、もしくは何か安っぽいプレハブ的な建物であれば、そこが蛮行の舞台になっていたことが一目瞭然で、却って或る意味で安心できたのかも知れないが、そこが広い敷地の中に丁寧に作られた建物が整然と並んでいて静かな雰囲気のするところで、内部にある「働けば自由になれる」というドイツ語が鋳造、または鍛造された鉄の門などは形がアートしているほどなだけに、却って無機的に淡々ととんでもないことが行われていた、ということが伺われ、底知れない不気味さが漂っていた。霊感の強い人はきっと足を踏み入れることが出来ないだろう、というような。
入口付近のパンフレットの棚には各国語で印刷されたパンフレットがあり、英文のものを取ろうとすると、あろうことか、ワープロで原稿を作成したと思われるが、表紙を含めると32ページに渡る日本語版の案内パンフレットがあり、驚く。さらにそれがこちらで作成されたのではなく、東京のグリーンピース出版会で作成されたとあり、また驚く。グリーンピースといえば結構過激な環境保護運動で知られるけれど、こんなこともやっているのか。また、ここを訪れる日本人はそれほど多いのだろうか。
 いざ内部に足を踏み入れると、恐らく当時のままの外の通路は、小石混じりの土で、舗装されていなかったりして、タイムスリップしたような気がして何とも言えない気分になった。中の展示もガス室行きになった人の子供達も含む無数の顔写真が壁一面に貼ってあったり、彼等から取り上げられた夥しい数の眼鏡やブラシ等が大きなガラスの容器に入っていたり、到着した時に外観から感じたのと同じように、余計な説明はなく、ただ「顔」や「物」に語らせている展示の仕方は秀逸だと思った。が、却ってひしひしと恐ろしかった。
 凄いところだと思いながらもあまり長居をしたいと思うところでもなかったので、一通り見て外に出る。クリストフがあまり来たい所ではないと思うのも判るような気がした。それにしてもこれだけの広大な敷地にこれだけの負の遺産をそのまま残しておくというのも凄いことだと思う。後で立ち寄ったところでその事を話したら、「そう。彼ら(ポーランド人)は何かがあった時にまたそれをそのまま使おうと思ってるんじゃないか、という人もいるくらい。」という人までいたほどだ。

 続いてWieliczkaに向かう。車窓から見える景色は来たときのワルシャワからのロングドライブの時と同じく手前には草原が広がり遠くに丘が見えるという感じ。車中でこれから行くところが「salt mine」=塩の鉱山と聞いても、自然の塩といえば海のそばの塩田から取れるものと思っている私には全然ピンと来ない。
 「?」の気持ちのまま、Wieliczkaの塩鉱山に到着。前庭の芝生の奥に可愛らしい建物が立っている。その正面の上の方にここの名前が書かれた看板があり、その初めと終わりにつるはしをバッテンにした記号が書かれているのと、その建物の後方に鉄製の櫓が見えるので「へえ、やっぱりここは鉱山なのか。」と思うが、それがなければどこが鉱山なのか外からは全く判らない。そしてまた、「鉱山」が観光地であるのも何故なのかわからないが、この日も夏休みで沢山の人達(特に大人。)が来ていた。
 が、中に入り、まずエレベーターでどっと地下に降り、さらに木製の螺旋階段をどんどん降りて行き、地下約100メートルのところまで行くとそこには別世界が開けていてここに人達が来ることを一瞬にして納得した。塩鉱山の岩肌はそのままにそこは博物館になっていて、昔鉱夫達がどのような道具を使ってどのように降りていって塩を彫ったか等々の展示があるのだが、何と言っても圧巻だったのは塩の結晶でできた大きなシャンデリアが数多く吊るされた広間のある教会だった。床も壁も天井も祭壇にあたる部分なども全て塩で出来ているということだった。地下のひんやりした空気と塩の浄化作用が相まって、ほんとうに気持ちが清められる思いがした。
 それにしてもフラットを出る際に、クリストフからも、見送りのお父さんからも、今日は冷えるところがあるので上着を持っていくようにと言われ、一応持って出たのに、ここでいるとは思わず車に置いてきてしまい、半袖のワンピースに裸足に靴履きの私は寒くて死にそうだった。クリストフも上着を持ちだす気配もなく半袖のTシャツのままだったし・・。でも、ここでいるんだったら言ってくれよ〜!!

 何のことだか判らずに行ったのですごく儲けもんの気分で塩鉱山を後にし、北上してワルシャワの前にずっとポーランド王国の首都だったクラクフを訪ねる。京都と雰囲気の似た古都で、一見して好きになる。朝からここまで何も食べていなかったので、まずレストランに立ち寄ることにする。ちゃんと8時前に朝食を採って2時頃まで何も食べないのは正直辛いものがあった。外食するのは来るときにドライブイン的なところに立ち寄って以来だ。仔牛のホワイトソース煮込みとでもいうような料理を食べた。付け合わせのキノコとお米が美味しかった。飲まず食わずで来た喉を最初に潤したビールが美味しかったのはいうまでもない!
 腹ごしらえをしてまず最初の目的地Wawel城に向かう。途中ずっと石畳で何げなく通り過ぎた建物のどれもが荘厳な感じがする。お城の手前にあった12ほどある門柱の全てに異なったギリシャ彫刻のようにリアルな着衣の人物の全身像がのっていたのが印象深かった。「え〜。まだ歩くの?」というくらいだらだら続く上り坂を歩き、ようやくWawel城に到着。
 ここでクリストフが絶対に見せたいといっていたものは「伝説のドラゴン」で、その件はあとで書くとして、私にとってここで最も印象深かったのは最初に立ち寄った城内にあるカテドラルの金の色が美しかったことと、ステンドグラスがとても美しかったことと、天井画が今までで初めてみるタイプの日本のお寺のと思われるような色彩と絵柄のものだったことだ。
 特に天井画は雲の上に楽器を持った天女が乗り、空の上を多数飛んでいるかのように楽器を持った後光がさした聖人が雲に乗り、一枚につき二人ずつがぐるっと同じパターンで丸天井を取り囲んでいて、何とバックが雲海を表しているのかまるっきり青海波模様なのだ。そして、全体の色調がステンドグラスのよくあるあざやかな彩りと対照的にブルーグレ-・赤茶色、焦げ茶色、ベージュ、白といったアースカラーなのだ。単に退色したからとは思えなかった。
 もう一つ印象深かった美しい金の色の中で特筆すべきは祭壇の手前に儲けられた好意の聖職者が座るところで、天蓋付きベッドの天蓋が巨大になっていてその下に玉座(?)があるという感じ。単に全体が金に彩られているだけではなく柱の角に金の人物像があったり鳥が飛んでたり、また一部にポイント的に使われている色がブルーだったり、ここまでは東欧といってもルーマニアと違いポーランドにはかなり「西」っぽい印象を持っていたのだが、ここに限っては「東」の印象を持った。
 そして中庭を通って外へ出ていよいよ問題の「ドラゴン」見物へ。広大な敷地の中を歩き、入場料を払って一番川に近いところにある小さな入口をくぐると先程の塩鉱山の時と同じく狭くて急な螺旋階段がどんどん下へ続いていた。最下階は洞窟状になっていて、そこを抜けると外に出て、そこには火を吹く竜がいた!というと聞こえはいいが、大きな石の上にこのお城の出来たと年代を考えるとひどくモダンなヘンリー・ムーアの現代彫刻のような、高さ3メートルくらいの竜が乗っていた。何でも、この竜から王子が姫を救った的な伝説があるということだが、ちょっと拍子抜けだった。

 目的を果たした後は元来た道を引き帰し、中央広場に向かう。古い町並みがしっかりと保存され、本当に美しい。途中、何かの行事のスポンサーをしているらしく時計の「シチズン」の横断幕を見た。ルーマニアでもシチズンの時計を町で見たし、東欧ではセイコーよりシチズンの方が強いのだろうか。ウインドーショッピングや外から教会ウオッチング(京都の寺くらい沢山ある。)をしたりしながら歩く。昔はその下を馬に乗った人が通ったのだろうと思われるような古い商店の長屋風の建物は中身が新しくなっていて、グラーツにあったようなインド小物の店を見つけた。クリストフの家の近くにもインド雑貨の店は見かけたが工業製品以外で日本の雑貨を見つけることはまずなく、ちょっと気になった。
 また、途中に記念切手屋があり、ヨハネ・パウロ2世の切手を沢山見かけたのでここの人達はよほど敬虔なカトリック信者なのだと思い、クリストフに聞いてみると、何とそのヨハネ・パウロ2世はポーランド人だったのだ!私が不勉強だっただけなのだろうがとても驚いた。ほんとに国の誇りなのに違いない。 さらに行って、通りに停っていた車が今まで見たことのないヨーロッパ車だったので何だろうと思ってよく見ると、昔はその当時のカローラをごつごつさせたようだったヒュンダイ車の洗練された姿で、「日本で見かけなくなったと思って油断していたらこんなところでこんな姿になって!」などと思ったりしつつ、ギャラリーに飾られた絵を外から楽しんだり掲示板の広告のデザインを楽しんだりしながら中央広場に戻った。

 広場ではステージで学生のブラスバンドが演奏していたり、テントを張り店を出している花屋さんがいたり、たくさん鳩がいて人が餌をやっているところがあったりした。周りには広場に面してオープンカフェが出ていてそのうちの一つでお茶を飲んだが一杯で相席したほどだった。
 久々のカフェの気分を味わい一息ついた後は、建物の下のトンネル状に通り抜け出きる部分の両側に民族衣装などを売っているお土産物屋がぎっしりと並ぶところに行く。どの区画も同じ装飾を施された木製の枠で仕切られていて統一がとれていて、昔ながらの明かりが点っていて、とてもいい雰囲気だ。京都でいえば新京極。というより、それぞれの店が同じ構えになっているという点では大阪の阪神百貨店よりの地下街の全国の都道府県の物産を集めて売っているところに近いが、どちらと比べてもたかが(?)土産物屋街といえ、美意識が全然違うという感じだ。強いていえば東京ディズニーランドの土産物屋街が最も近いだろうか・・。

 さて、クラクフ観光の最後にはこれまでも何度か前を通ったり遠くに望んだりしていた聖マリア教会に。ここは途中まではお決まりの煉瓦造りで左右対称の塔という道を採りながらも最後のところで右と左の塔の高さも形状も違うというとても珍しい建物だ。
 クリストフによると、二人の兄弟大工によって一生かけて建てられて、兄弟が競い合ったからか何かの理由で左右の高さが違ったとのこと。(核心部分は判らなくて残念。)またこの教会の鐘がこの前の(?)革命と何か関係があったらしい。
14世紀に出来たものだとされているらしいが、中に入ると装飾がとても美しかった。ここのステンドグラス付近の天井から壁にかけては全体が群青色でてっぺんから金色の星が降って来るようなイメージで金色が使われ、四隅に天使がいて・・というようなものだった。だからますますさっきのお城の中のカテドラルの天井画が特殊なもののような気がしてきた。また、正面の祭壇は一定の時間が来ると仏壇が閉まるように閉められ、とても美しいらしいと聞いたが、たまたま私達は閉まるときに居合わすことが出来た。あまりに荘厳で神聖な感じに気圧され写真を撮る気持ちになれなかった。今回の旅で3度目のことだ。

 最後の目的地聖マリア教会を出たらいよいよクラクフとお別れ。旧市街とその外を区切るフロリアンス門を出る。日本のお城の石垣のような石造りの門を出ると何故か片方の壁に所狭しと絵が飾られていた。いざ、一路リブニックへ。ものすごく濃い一日だった。クリストフありがとう!!

 少し迷ったりしながらリブニックに着くとさすがの夏の日もとっぷりと暮れていた。夕食を取るためお父さんのフラットへ行くと、お父さんの手料理が待っていた。ポーランドでの最後の晩餐のメニューは前菜のハム、トマトときゅうりのサラダ、たっぷりのパスタ添えのビーフストロガノフ、そしてデザートのチョコレートアイスクリームだった。こんなご馳走だったにも拘わらず往復とも運転して疲労困憊のクリストフはお腹は空いているのに殆ど食べられずに気の毒だった。それと対照的にいつもテーブルの下でおとなしくしている17歳の犬がこの日ばかりはチョコレートアイスクリームが大好きでお皿を舐め尽くすのに驚いた。弟さんに別れの挨拶をし、明日駅まで車で送ってくれるお父さんには明日4時起きで5時半発の電車に乗るので早く寝るようにといわれつつ別れる。

 早く寝なければ、と思いつつも、クリストフのフラットに戻るとまず荷造りを完璧にし、ルーマニアでは一種類しか書けなかった反動で、これまで行った先々で買いためた絵葉書を遅くまでかかって書いた。今回からは宛先にマリウスも加わった。結局ポーランドでの三日間もとても充実したものだった。明日は久々に電車に乗る。さすがにまた往復10時間かけて車で・・ということではないが、そこは超親切なクリストフ。ワルシャワ空港まで付き合ってくれるという。ほんとうにすみません。

 7月22日(水)。時間は少ないとはいえ、ぐっすり寝て朝に。ちゃんと4時に起きられた。
お父さんがこちらまで迎えに来てくれて、懐かしいラダの横から開く前のトランクに荷物を積み込み、リブニックの近くの駅Gliwiceに行く。
 駅が思ったより大きくて立派でびっくりする。正面の電工掲示板式時計で見ると4時55分だった。荷物を降ろし、構内へ。朝早いが、ワルシャワ行きの電車のせいか、そこそこ人がいる。クリストフが切符を買いに行ってくれている(予想通り英語の表示などはなかったので本当に助かる。)間待っている時に、後ろの方にかなりの人数がいるとみえる、ここで夜を明かしたとホームレスとおぼしきジプシーっぽい人の集団が目についていた。切符を買ってクリストフがこちらに来るや、そちらを指して「That is Romanian.」とisにアクセントを置いて言われた時には「むっ」としたが、「ここに来るルーマニアの人達はこういう人ばかりなのかも・・。」と思うと反論する気にもなれなかった。

 いよいよホームへ。ここが始発なのか、既に赤に黄色のラインの電車は停っていた。荷物を運び込んでもらって本当にお世話になったお父さんといよいよお別れだ。お礼をいい、再会を誓うと、別れ際に、「車内で食べなさい。」と、この時間までに用意してくれていた2種類のサンドイッチとトマトの入った袋を手渡され大感激のうち発車となった。ほんとうに至れり尽くせりのお父さんだった。

 この5時半発の列車はカトヴィチェ経由でワルシャワに行く特急列車だ。車内はコンパートメントになっていて、コンパートメントの廊下に面している壁には補助席までついていた。私達が乗ったのは2等車だったが枕カバーも清潔だし、鏡もついているし、気の利いたインテリア雑誌が置いてあったり、飲み物置きの台の下はちゃんと栓抜きになっていたりなかなかよくデザインされていた。お手洗もきれいだったし、食堂車もちゃんとしたのがついていて、とてもいい雰囲気だった。
 途中カトヴィチェから人がたくさん乗ってきた。車窓から見える景色は相変わらず「緑の丘」が殆どだったのであまり面白くはなかった。3人で乗っていたためあまり退屈もせず、ワルシャワに着いた。

 ワルシャワの駅はさすがに首都の中心の駅でとても大きかった。ここからバスに乗り、空港へ行く。こんなに快適な電車でシンプルな行き方であれば、次からは自分達で電車で行かせていただきます!と思った。空港までバスに乗るのはかなり「裏技」っぽいが・・・。
 バスがすぐ来た為、ワルシャワ市内で中央駅と空港以外で見た建物は中央駅から出た正面に見える巨大な建物くらいで、国会議事堂か何かかと思って尋ねたら、旧ソ連が建てた文化科学宮殿ということで、旧ソ連の支配の象徴のようなものでみんな嫌っているそうだった。他に窓からはゴージャスで近代的なホテルがいくつか見られた。

 暫く行き、新空港に到着。初めて降り立った時に驚いた、薩摩芋の皮のような色と、白と、紅色の鉄骨にミラーガラスが眩しい。
 まだ時間は十分あるので、まずチェックインして荷物を預けた後、夕べ書いた絵葉書を出すべく郵便局を探すがこれだけ威容を誇る空港の中には郵便局がないらしく、隣接するとはいえ歩くとそこそこある旧空港の建物に行かなければならなかった。
 窓口で切手を手に入れるや否や、ずっと付き合ってくれているクリストフも交えて、葉書の枚数が半端じゃない上に、海外向けの値段が値段だけに一枚の葉書に複数の切手を貼らなければならない、恐怖の切手貼り作業を行い、何とか無事投函できた。
 再び新空港に戻り、カフェテラスでコーヒーとフレンチフライをいただき、名残は尽きないがクリストフとお別れだ。「今度は北の海も見せたいので、もっと長いこと滞在するように。」と、言ってもらい、「やはり海に面していたのだ・・・。」と、思う。ポーランドの海も一度見てみたい。それにしても、帰りはあの道程を一人で帰らはるのかと思うと恐縮してしまう。

 クリストフと別れ、中に入ると、思い掛けなくエグゼクティブラウンジがあった。エグゼクティブというのもおこがましいが、一応入る資格はあるのとまだ時間があったので、中に入り、調子に乗ってお酒などを飲みつつ時間を潰していると、「ひょっとしてこの(今最終の搭乗のアナウンスをしている)SASに乗るんじゃないですか?」とスタッフの人に言われ、慌ててラウンジを後に飛行機に滑り込んだ。