グラーツ到着

7月2日(木)グラーツ市街散策。15年前のキャンプ地訪問

7月3日(金)山へ。そして、リユニオン・ディナー

7月4日(土)グラーツを後に。

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 私は13年ぶり、まっちゃんは15年ぶりに訪れる、懐かしのグラーツ。でも、あの時は鉄道で入ったので、このちっちゃな空港に降り立つのはこれが初めてだ。ちっちゃくても国際線が発着しているのはさすがヨーロッパの、オーストリアではウイーンに次ぐ第2の都市、といったところか。
 もう夜は更け、10時半になろうとしている。出口を出ると、懐かしいイングリッドが、初めて見る男の人--これが数年前に結婚した年下の旦那さん、ペイターであろう--と一緒に迎えに来てくれていた。抱き合って再会を喜び合い、まっちゃんはミュンヘンの空港で買ったバラの花の形のチョコレートのお土産を渡す。
 遅い時間なので早く家へ向かいましょう、ということで、早速駐車場へ。日本びいきのイングリッドの三菱ギャランに乗り込む。イングリッドが運転し、ペイターは助手席に、私達は後ろに乗って、ロイテがどうだったかとか、ここまでの道中がどうだったかとか色々なごやかに会話が進んでいた時、突如まっちゃんが、「ところで、こちらは息子さんですか?」と尋ねたのだった。それまでの和やかな雰囲気はピーンと凍り付き、ちょっと洒落にもならないだけに、さすがの私にもフォローする術がなかった。たしかイングリッドは、「えっ?何言ってんのよ、夫に決まってるじゃない。」というような事を言って、その場を取り繕ったような気がするし、確かにみんな一応笑ってはいたが、その車の中の空気がその後も一貫して冷たかったのはいうまでもなく、その後家に着くまで何を話したかも覚えていない。
 後でまっちゃんが私に「だってー。」と言い訳していたように、確かに(後に日本を訪れ、この旅行の写真を見た、この後に会った友達も異口同音に言っていた)、イングリッドは貫禄バリバリの雰囲気ではあるが、キャンプ当時と比べると格段に(正直言って)醜く年を取っていたし、ペイターは貫禄などみじんもなく、イングリッドと比べればかなり若そうで、私の知っているイングリッドなら到底選びそうもない英語も話せないフツーの人で、不釣り合いであるにせよ、それにまっちゃんはイングリッドに7歳の息子がいることを知らなかったにせよ、それにしても・・・である。最近、日本で、まっちゃんの出席したある会合で、ちょっとふくよかになったていたので、出席していたみんなが「もしや妊娠してるのでは?」と思っていた友人に、ある女の子が「ひょっとしておめでた?」というみんなが思っていながらも聞けなかった質問をして、結局違っていたので、その子は気まずい思いをすることになったのだけど、場にいた一同は胸のつかえがとれてすっきり。というケースがあったそうだが、この場合、いくらなんでも母と息子ほどは年の差がないであろう、というのは火を見るより明らかだっただけに・・・。この爆弾発言はこの後のグラーツ滞在中のイングリッドの、何となく私に対してとは差がある、まっちゃんに対する態度などなど全体の雰囲気を決めてしまった、と言っても過言ではなかった。

 イングリット宅に到着すると、既にかなり遅くなっていたにも拘わらず、イングリットのお母さんが起きて待っていてくれた。日本びいきで、お茶やお香を愛好する(と、いっても後者はインドのものとしか思えなかったが)というイングリットとお母さんと、4人でお茶をする。「これは日本のお茶よ!」といってふるまわれた計り売りの紅茶によくある紙袋に入れられたお茶は、私達の知っている緑茶とは似ても似つかないもの(今思えばフレバリー緑茶の類だった)だったので、正直に感想を述べたが、「ほら、ここに書いてある!」とパッケージを指差し一蹴されてしまった。か、かなり強引だ。私はキャンプの翌々年にこの家を訪れ、お母さんにも会ったことがあるはずなのだが、夜で周りの景色がよく見えなかったから、ということを差し引いても、どういうわけだか、申し訳ないことにあまりよく覚えていない。お母さんが私のことをよく覚えていてくれて、「あの時はこうだったわね!」と言って下さっても、残念ながら、いわゆるジャパニーズスマイルを浮かべて適当に相槌を打つことしかできなかった。

 一夜明け、7月2日(木)。今日もとってもいいお天気!私の場合毎度のことなのだが、とってもよく眠れた。「朝ご飯はこっちよ!」と案内されると、そこは2階のテラスだった。テラス用の白い丸テーブルにはオレンジにマーガレットの花の模様のクロスが掛けられ、白地にブルーの縁取りのカップやお皿で私達2人分の朝食のテーブルセッティングが見事に施されていた。コーヒーは、その後デンマークやスウェーデンでも気の利いた家庭ではどこででも見かけることになる、が、どういうわけか未だに日本では見たことのない真白だけれど、ひねりを効かせたデザインがとても優美な印象の魔法瓶に入っていて、何杯飲んでも煮詰まることもなく、最後まで温かだった。パンはキャンプ以来懐かしの、カイザーロール。おいしいハムやチーズもいただいたところに、「さあ、これも召し上がれ!」と、苺のたっぷりと載った日本で普通見かけるものの2倍はあるケーキが!!実は、朝食を「おめざ」的に、ケーキとコーヒーなどで済ませることもしばしばの私には「今まででも、もう十分頂いたんですけど。」という程度の驚きでしかなかったのだが、他の家族がパン食でも自分だけは毎朝ご飯とお味噌汁と焼き魚を食べるまっちゃんに「朝からケーキ」というのは驚異以外の何物でもなかったようで、私だけがいただくことに。見た目どおり、それほど甘すぎず、とてもおいしくいただけた。でも、ほんとうに満腹に。

 これからいよいよ懐かしのキャンプ地だったペスタロッチハイムを訪れることをメインにグラーツ市街を周る。
私の場合、イングリットの家と同じく、ここも'77、'79と2回訪れているのだけれど、その何れも焦点はあくまでも人にあり、街も象徴的な建物以外は何となくの雰囲気でしか覚えていなかったので、今回初めてこのオーストリア、シュタイヤマルク州の州都であり、ウイーンに次いで第2の都市であるグラーツの街の古くからある建物の、そして街の佇まいの美しさに感動した。何というか、子供の頃に読んだことがある本を大人になってから読み返して昔には全く気づかなかった部分に感銘を受ける、みたいな感じに。
 いかにもヨーロッパの街、という感じで、昔からの石造りの茶色っぽい屋根の4〜5階建ての建物が中央広場に面して建っているのだけれど、その一つ一つが、レンガ色地に白で装飾が施されていたり、白地に窓枠やバルコニーの木の素材で装飾が施されていたり、薄レンガ色にカーキ色で飾られていたり、壁に特に装飾はなくても窓やバルコニーの外側のプランターの花でアクセントを付けていたり、全体を蔦で覆わせていたり、と、それぞれ個性を主張しながらも、全体としての調和が保たれていることを、とても興味深く思った。大人の街の、あるべき姿、というところか。
また、当時は全く興味がなかった(グラーツで買い物といえばキャンプ地の中のジュニアカウンセラーの人が運営するスイーツショップぐらいだった。)ショッピングで、ブランド品の、という意味ではなく、存在そのものがお洒落な感じの店がたくさんあったことにも驚いた。中でもお菓子屋さんや、お茶屋さんはディスプレーの仕方がとても綺麗で、特に、その、お茶好きのイングリット御用達のお茶屋さんは、色々なお茶(主に紅茶)が、赤と黒を基調とした地色に、仙人のような人と楊貴妃のような妃が描かれている大きな缶に入っていて、天秤で計り売りをしてくれるのだそうだ。TIT KOON YUM(鉄観音)やOOLONG(烏龍)の他、SEN CHA(煎茶)やGEN MAI CHA(玄米茶)も発見。昨夜飲ませてもらったのは、ここのJAPANISCHER KIRSH-BLUTEN TEEで、「日本の桜茶」ということだが、ほんとうに今まで経験したことのない謎の味だった。日本物というとイメージが先走りがちなのだろうか?

 中央広場から見えている時にはそうは見えないが、近づくと、どういうわけか「寸詰まり」な感じなことを、私達はもう既に知っている、何だかキュートで、絵葉書でもおなじみのグラーツのシンボルである時計台のある丘に上り、グラーツを一望する。濃い緑がそこかしこに見られ、シュタイヤマルク州が緑の州と呼ばれることに納得する。途中で、'77年当時は日本にはまだ入ってなくて、そのネーミングに拍手した思い出のある、アイスクリームの「エスキモー」ブランドの旗を見つけて感激する。当時パイパーという名前のアイスキャンディーのオレンジ味を買ったつもりが、実はラム味かなんかの大人の味で、食べられなかったことを思い出す。今だったら好きだと思うので、探してみたが、さすがにもうなかった。こっちはアイスクリームやケーキの横についてくるふわふわのホイップクリームが砂糖抜きなのだけど、とにかく良質で、ほんとにおいしかったんだ!ということまで思い出してしまった。

 まず最初のイベントであるアイドル時計台訪問を終え、再び下の中央広場へ。さっきから、真ん中に、昔からある噴水の横に、確か昔はなかった謎のトーテムポールが建っている、と思ったら、なぜかペルーから来たバンドが「コンドルは飛んでいく」系の音楽を奏でている。この二つは関係があるのか?また、なぜペルーからこのグラーツに?という謎を残しつつ、昼食の場所へ。
 イングリットご推薦の、地元の人としか行けない類の、路地の奥にあるシーフードレストランへ。昼から白ワインを飲める、ヨーロッパの食生活は、ほんとうに私に向いている。ここでも中央に葡萄の棚がある、中庭になった部分にテーブルが出ていて、その一つに席を取る。ヨーロッパの夏の屋外での食事はほんとうに、気持ちがいい。

 昼食を終え、いよいよ思い出のキャンプ地、ペスタロッチハイムへ。今思うと郊外だったみたいで、車で向かう。キャンプの2年後に訪れたときには最後にみんなで植樹した樅の木が少し伸びていた以外は特に変化はなかったのだが、15年後の今は一体どうなっているんだろうか?
 ペスタロッチハイム。そこは有名な教育者の名前を冠した孤児院であった。それが、建物の形は同じ、敷地の形も同じ、だけれども壁の色など外観が変わっているのに、まず驚いた。けれども、初めは「それだけ年月が経てば、塗り替えぐらいはするよなあ。」くらいにしか思わなかったのだが、子供らしい人は全く見かけないし、なんだか静かな佇まいに違和感を覚えたら、ここはもう孤児院ではなく、シュタイヤマルク州立の病院の事務所になっている、ということだった。
それでも運良く、事情を説明して、何とか中に入れてもらうことができた。内部の造りはあの当時とあまり変わっていないということを確認後、最も思い出の深い、みんなでよく集まり、遊びもした庭へ行く。まず最初に目に入ったのが、私達のプールがもうプールではなく、プールサイドのコンクリートだけはそのままに、そこだけ草茫茫の空間となっている、ということだった。ショック!!多分あまり使われることはないにも拘わらず、手入れの行き届いた広い芝生の部分とは対照的だ。めげずにさらに近づくと、何と蓮池になっていた。が、しかし、ここでも日本人根性と言うべきか(だったらイングリットはどないやねん。とも思うが。)その元プールの全景、またクローズアップを撮るのみならず、ひきつり笑いながらもそのまえにイングリットと共に立ち、記念撮影をしてしまうのであった。
 この分だとあの樅の木は・・・。と不安にかられたが、それはそのいわれを知ってか知らずか、無事で、すくすくと私達の身長の4倍以上もある大きな木に成長していた。その後、その樅の木のみならず、キャンプ中私達が食べたり投げたりして遊んで、目に命中してえらい目にあった人もいた、小さな青りんごのなる木も無事で、裏の家もオーナーも含めて昔と変わらないことがわかった。プールはともかくとして、用途が変わっても、緑の庭がそのまま残っていたことに感心。これからも、またここを訪れる機会があれば、あの樅の木の成長を見守っていきたいものだ。

 グラーツでのメインエベント、キャンプ地再訪があっけなく終わると、デイ・ケア・センターのディレクターを務めるイングリットのオフィスを訪問。さすがにディレクターともなれば個室を持っていて、日当たりのよい窓に観葉植物なんかが置いてあったりして、仕事ができます!という感じの執務室だった。ここで、これまで何となく触れることが出来なかった、クリスの死について、少し尋ねてみた。が、得られたのは、「彼は私の本当の親友だったから、今でもショックだわ。とにかく、悪いと聞いて以来、急に弱ってしまって、あっという間に・・・。奥さんも食品関係の仕事だったのだけど、辞めざるを得なくなったみたい・・。」と、いうような、核心にはわざと触れないような答えしか得られなかった・・。でも、奥さんがそういう仕事を辞めざるを得なくなった、ということは、まだ偏見の根強いあの病気にでも罹ってしまったのだろうか・・。いずれにせよ、もうクリスとは会えないのだということだけがはっきりした。

 家に戻り、ペイター、ヤコブ、お母さんをピックアップして、再び車で郊外の山の上のレストランへ。何でも、典型的な「シュタイヤマルク風の」料理が食べられるところだそうだ。ここにはイングリットのおじさんのティトーも来ることになっていて、待っている間、建物の外のの広々とした木造のテラスから、一面に色々な色調の緑が広がる景色を楽しむ。そのテラスの一角にはフィールドアスレチックのもの程ではないけれども、子供用の木製の遊具もあり、ヤコブと遊んだ。
 ティートーが到着し、中の食事をするテーブルに移動。ティートーは、83歳ということだが、金子信雄を大きくしてゲルマン系にしたみたいな感じで、まだまだ現役、という感じ。イングリットがティートーを招待していた関係上か、また、私達が珍しい客であったからか、いや、それは考え過ぎで、単にイングリットの家族が椅子席側に3人並ぶのが自然の成り行きだったからか、私とまっちゃんがソファー側(といっても木のベンチがずーっと続いているような側)でティートーの両脇に座ることになった。ティートーは、第2次世界大戦中にマレーシアかどこか東南アジアの国に行ったことがあるらしく、そのレストラン自家製のシードルがまわってくるにつれ、向こうで現地の女の人をモノにしたとか、しないとか、という話をし、私達にも肩に腕を回してきたりして、「何か勘違いしてるんと違うの?このおっさん?」という感じで、あまり感じがよくなかったし、また、そういう状況で何のフォローもしない(例えば話題の転換を図るとか・・・。)イングリットに対しても、所詮、日本贔屓といっても、ただの異国趣味なんと違うの?と思ってしまった。異国趣味といえば、彼女らは別にユダヤ教徒という訳でもないのに、「子供にはユダヤ名をつけたくって『ヤコブ』にした。」というのもどうしてか解せなかった。
 典型的なシュタイヤマルク料理というのは、大きめの木製の俎板の上に、ソーセージやベーコン、ピクルスや茹で卵などが切って整然と並べられたものが真ん中に置かれ、それを各自に配られた小さな俎板の上に、各自のペティナイフで取り、黒パンの上に乗せながらいただく、というものだった。キャンプ当時、晩ご飯はハム、ソーセージ類を載せたカナッペ風の物だけだったことも多く、まさに「寝る前には物を食べない」効果でさすがの私(常に「体格がいい」系の)もいい感じでダイエットになったことを思い出した。

 7月3日(金)。今日もテラスでの朝ご飯がおいしい。私達が食事を写真を撮ることに気付いたせいか、一段と豪華な内容になっていた。ミネラルウオーターが、フランス製のヴォルヴィックだったことに少々驚いてから、私達が「日本」でそれを飲んでいることを考えて、思い直した。
 これからロープウエーで登れる山に行き、夜にはイングリットがアレンジしてくれたキャンプで出会った人達が集まってくれる予定になっている。但し、イングリットのお達しにより、その為のおもてなし料理は私達の「日本料理」となっていて、かつてキャンプで、日本のナショナルデーで私達が渡したレシピに基づいて料理のスタッフが造ってくれた「すきやき」が、いくら醤油は持参していたとはいえ、日本独特の「すき焼き用の肉」や「糸蒟蒻」などなどがなかったため、すき焼きとは似ても似つかないものになっていたことを思い出し、今から「何を作ろうか?」と、頭が痛い。

 今日は、ヤコブも一緒に山へ行く。ヤコブはもう小学1年生のはずだけれど、出発するのを待っている間、何故か傘でフェンシングをすることになると、本気で掛かってくるし、一応ゲストであるはずの私達への態度も挨拶などもう一つ礼儀正しいとはいえないし、また、そのことでイングリットが彼をたしなめるわけでもないし、遅く子供ができて甘やかすパターンなようで、遅いからこそ賢く躾けられるパターンを予想していた私達は、肩透かしを食らわされた感じだった。イングリットって、賢い女性だったんじゃ・・・。
 ともあれ、イングリットの運転する車で山へ。途中暑くて車内の窓を開けたとき、風が抜けるように両サイドを開けようとすると、それをすると首が回らなくなるから(?!)といって、片側だけにするように嗜められた。(これはこの後各地で聞くことになる。)日本ではむしろ同じ方向から同じ場所にばかり風が当たることの方を気にするのに・・・。

 山のふもとに到着し、ロープウエーに乗る。乗り場が木造で床も軋むような感じだったので、不安がよぎる。いざ、ロープウエーがやってきて、私の見たものは、ロープウエーというより大きなアルミ製(まさかジュラルミン製ではあるまい。)のお弁当箱にロープウエー独特の扉とドアがついたもので、何と扉の内張りや外側の補強用とおぼしき枠や屋根の一部は木でできていて、その乗り心地はやはりガタガタで、以前、沖縄の海洋博跡地でおんぼろのジェットコースターに乗ったとき以来のスリルを味わった。見下ろすと、針葉樹の林が広がり、日本の山を思い出せたことが救いにはなったが・・・。
 山頂で降りると、可憐な黄色や紫の花が咲く緑の草原が広がっていて、メラニン色素の加減ではないに決まっているが、私達の見慣れた黒白ならぬ、茶と白の乳牛が放牧されている。そこで私達は、ここってキャンプの時遠足で来たところかしら?と思い当たる。何故かというと、その遠足で一番の思い出は、スペインチームの面々と追いかけ合いをしていた時に、ふとしたはずみでリーダーのメルセデスが転び、起き上がった時、ふとみると、手をついたとおぼしき場所に牛の「フン」があり、その片隅にはくっきりと2本の指の跡が!(日記に絵入りで書いたほどだ。)という事件だったから、牛がいるグラーツ近郊の山=あそこにちがいないからだ。だから私達はそこでヤコブと走り回っている間も常にその轍を踏まないよう細心の注意を払っていた---はずだったーーのに、後ろから来たヤコブが何か指摘してくるので見ると、暑くなったため腰に巻いていた私のパーカーの右裾にどういうわけか・・・メルセデスが指を付いたものが・・・付着していたのであった。腰を下ろした時に、油断していたのが災いしたらしい。その場では応急処置的なことしかできず、色も臭いもなかなか去ってくれず・・・とても悲しかった。
 ロープウエーの乗降所から少し離れたところに昔の戦争中の英雄を祀った木製の大きな十字架があり、そこで昼食で合流するはずのティトーと、彼が「現役」の雰囲気を漂わせている原因はここにあったか!という感じの、彼より10歳か20歳は年下かとおぼしき(といっても60~70代ということだけれども。)彼女と合う。彼女はロマンスグレーのショートカットの髪を美しくセットして、トランジスタグラマー系で黒のサマーセーターに白いパンツにサングラスがよく似合い、私と一緒にその辺にあったブランコに一緒に乗ってしまう、お茶目な人だった。

 さて、今度は山の中腹でロープウエーを降り、イングリットおすすめのレストランに行く。日本でいえばさしずめ山の中腹にある、そば屋とでもいったところであるが、日本のそういうところにありがちなバラックに毛が生えたような感じではなく、白い壁の、なかなか重厚な建物で、外側にもテーブルが出してあって、鉢植えの花が美しく飾られていて、テーブルコーディネートも、白いリネンに白とブルーで小花柄が散っているクロスの上に、小さめの薄青地に白の織り模様の縁取りの、ブルーの小さめのクロスが斜めに2枚敷かれているて、中央には、白地にブルーの小花模様の小さな花瓶に、白とブルーの花が活けられていて、その横に、花瓶とお揃いの灰皿が置かれていて、運ばれてくる料理のお皿もみなそれとお揃い、という、なかなかお洒落なものであった。
 一応イングリット、ティートー、その彼女、と、私達の体格を比較すると、身長はあまりかわらないが、体積は彼等は私達の2倍はある感じだ。ところが、である。とにかく地元の人達である彼等がお勧めメニューをオーダーしてくれるのは有り難いことなのだが、私達が、"ここにはなかなか来られない"、また、「若い」という理由からか、まず、みんなでビール(私は黒!)を注文して、料理の来るのを待っていると、私達2人のところにだけ、大きな(多分豚の)レバー団子のスープが運ばれてきたのだ。「えっ!どうして私達だけ?」と不審に思いつつ、出されたものは残さない主義で有り難く頂戴すると、続いてみんなに、ディナー皿にトマトソースがひかれた上に、巨大な自家製ソーセージのグリルが2本に大きめに切ったフライドポテト(ほぼ1個分)の付け合わせが乗ったものと、別のグラタン皿のような入れ物に入った山盛りのザワークラウトが運ばれてきた。「日本ならこの半分でも一人前以上あるわ!」と思いつつも、何とか平らげて、「お後はコーヒーか。」と、思っていたら、たっぷりのクランベリーソースが底に一杯入り、その上から口の8cmくらい上までたっぷりの生クリームがとぐろを巻き、ご丁寧に左右に2本シガークッキが角のように刺さっている、不二家のパフェも真っ青!の、クランベリーパフェが全員の分やってきたのだった。これには参った。けれども口を付けたら最後まで食べるよう躾けられたため、大食いの謗りを免れないこの私。また、大のおいしい生クリーム好きと来ているので一口食べたい誘惑には勝てず、一口食べてしまったからには・・・勿論全部残さず食べてしまったのであった。ところが、まっちゃんはビール大好きだけれども、どちらかといえば甘いもの、特に、生クリームは「怖い」と思う人。「私は食べられません。」宣言。食べ物を粗末にすることは、例え他人といえども許さない性質たち

のイングリットは、私の食べっぷりを見て、何と、「ユキ、マスミの分も食べるのよ。」と来た!どうして他にも3人図体のでかい大人がいて、しかも私は彼等より一皿余計に食べているのに、また、マスミは私の子供でもないし、ましてやそれは私達が自分で頼んだものではないのにそう来るのだ!?おまけに今夜はリユニオンパーティーの食事担当もしなければならないのに。と、私もまっちゃんも思った。のに、イングリットが発する独特の有無をいわさぬ押しの強さによりその場の空気ではそれを飲まないことは考えられなかった。その結果、私はまっちゃんのパフェに一口口を付けた・・・。それが何を意味するか。そう。全部平らげたのだった。まっちゃんには勿論感謝され、みんなには称賛された。けれども、ほんとうに今までで最もしんどいランチとなった。
 食事が終わり、暫し腹ごなしをかねてレストラン付近をヤコブと走り回って遊ぶ。と、そこに小屋を発見。まっちゃんに、「ゆきちゃん。見ん方がいいわ。」と言われ、却って気になり、駆け付けてみると、そこには数頭豚が飼われていた。私は案外こういう種明かしにも動じない方なのだが----食べるのは大好きだが、それを料理することは考えられない母に代わって活け海老を「おどり」に料理したりするし、基本的にその産物が好きなのであればそれを得る過程にも目をつぶってはいけないと思う方なので----まっちゃんはちょっとぞっとしなかったようだ。
 ここでティートーとその彼女とはお別れ。彼等はこの辺に車を停めているということなので、そこまで行くと、彼女の愛車だという真っ赤なオペル・カデットが。洋服と同じで真っ赤は年を経た女性にこそ似合うのだということを実感。私の年取ってからの目標が一つ増えた。

 私達はそこから山麓までまたロープウエーに乗り、車で一路グラーツ市街へ。道すがら「←ユーゴスラビア」と表示のある標識を発見。この表示がどう変わるのか、と思うと同時に、ヨーロッパ=陸続きで国が一杯。の世界を実感した。
結構ハードな山歩きから帰り、改めてパーティー用の日本料理の献立を考える。イングリット宅にはキッコーマン醤油があり、カレー粉もあるところから、ありそうな食材で簡単にできるものを、と考え、日本料理というより日本の食卓によく並ぶものという発想で、私が「すきやき」を、まっちゃんが「カレーシチュー」と「もやしのナムル風サラダ」を担当して作ることに。
 ところが、スーパーマーケットに行ってみて、食肉売り場の商品構成にびっくり!ある程度予想はしていたものの、豚の加工品であるハム、ソーセージ、サラミの類は凄くバラエティーに富んでいるのに対して、牛肉は、日本のようにすき焼き用の薄切り肉が様々なランクで並んでいるとは思っていなかったが、バラ、ロース、ヒレ、といった分類すらなく、仔牛か牛かの2種類のみの選択枝で、赤身のブロックのみしか売ってなかったのである。恐るべし!仕方なく牛を買い、イングリット宅に戻る。

 イングリット宅の台所に立つ。さて、赤身のブロックをいかにすき焼きにするか。まず、薄切りにせねば。幸いイングリット宅にはマジックの「美女の胴切り」を彷彿とさせるハム用のスライサーがあるので、それで挑んでみたが、中途半端に柔らかいものには歯が立たないようで、仕方なくナイフで切ることに。が、手切りでは薄切りなどできるわけはなく、仕方がなく太めの絲状に切り、こうなったら「すきやきはまずいものではありません」ということを最大の目標に、玉葱、マッシュルームをねぎ、しいたけの代わりに、赤ワインを酒の代わりに、醤油、砂糖はそのままに、「牛肉の赤ワイン煮、すき焼き風」を作り、鉄鍋ならぬ銅のフライパンのままで食卓に供した。まっちゃんのカレーシチュー(というよりスープ)にスジは引き取ってもらったのだったが、それでも尚、日本人の私からすると、こんなものすき焼きと思われてたまるか!という代物だったが、私の日本の肉についてなどの言い訳と、工夫の甲斐あって、まあ好評だった。まっちゃんのスープとサラダも好評だった。
 それにしても、食は文化で、その土地の気候風土に合ったものが発達するということを再確認させられる経験だった。お願いだから、オーストリアで日本料理を作れとは、もう言わないで。言うなら、日本を出発する前に、予め言っといて。持って行ける食材はこちらから持参するから・・・。

 今夜のリユニオンには、イングリット、ご主人、お母さん、ヤコブの他、キャンプ時に2人組で一泊でホームステイさせてもらった時の、私のホストファミリーのお父さんであったペイターさんと、その(私は初めて会う)下のお子さん二人と、当時ロイテのクリスチャンと同じくジュニアカウンセラーだったアンディーが集まってくれた。と、いうことで、私達は山歩きから帰って休む間もなく、汗だくになりながら苦心して食事の用意をした後、こういう時のために持ってきた浴衣に初めて着替えてゲストを迎えたのだった。
 みんな久しぶりに会う私達がいきなり浴衣で現れてびっくり。けれど、とても喜んでくれた。ペーター(父)は、当時から名前からしてラテンの人ではないけれども、フリオ・イグレシアス系の素敵な人だなあ、と思っていたけれど、今回名刺をもらってびっくり。なんと彼は、このグラーツの劇場で歌っているオペラシンガーだったのだ。今日は主宰する教室の加減で来られなかったという奥さんのサーシャさんは同じ劇場のバレリーナで、2度目の奥さんだったということだ。私がホームステイした時に居た、私と同じ年頃のマリーサとダニエラという二人の娘さんは先妻さんの子供だったということで、ここに来てようやく、ご両親ともハンサムで美人なのに娘さんは今いちだった謎と、娘さん達がお母さんのことを「サーシャ」と呼んでいた謎が解けた。その娘さん達はもう独立されているらしく、今は今日一緒に来ている二人の間の男の子と女の子と一緒に暮らしているのだそうだ。二人ともほんとうに可愛らしい。まさに"二人のお子さん"、という感じ。
 キャンプの時はハンサムだけれど、キレるとヤバそうだったアンディーは、今は車のエンジンのデザインをするエンジニアになっているということで、仕事が終わった後、スーツにネクタイ姿で駆け付けてくれてびっくり。あとで見送りに行ったとき、愛車がフォルクスワーゲン・パサートで、「おお、エンジンデザイナー」と思った。そのキレるとヤバそうな、どことなく神経質な感じは健在で、何となく、仮にこれから先グラーツを訪れることがあっても、もうアンディと会うことはないだろうな。と思った。
 それにしても、ここにクリスが居ないなんて・・・。

 7月4日(土)。思い出の地、グラーツでの最後の夜も明け、いよいよ9:55分の飛行機に乗ってもう一つの思い出の町、ウイーンへ行くことに。
 イングリット宅のテラスでの最後の朝食は、それは豪華で、いつものチーズに加えて私がリクエストしたブルーチーズ、そして、コーヒーに加えて急須に入ったお茶まで用意してくれていた。黒胡麻のついた、スティック状のパンがとてもおいしかった。今ではすっかり見慣れたこのご近所とも遂にお別れ。
 イングリットとペイターが車で空港まで送ってくれたが、家をでるときもヤコブはテレビゲームに熱中していて挨拶すらしてくれず、色々な意味で、再会するまで持っていた、イングリットに対するよい印象が全部とは言わないまでも、かなり崩れてしまったのが残念な、今回のグラーツ訪問だった。と、思いつつも、そんなことはおくびにも出さないで、でも、割合あっさりイングリット夫妻と別れる。

 それにしても、明るいところで改めて見ると、グラーツの空港はほんとうに小さい。でも、カフェテラスなんかの設備は小さいながらもお洒落に充実していた。どこぞの空港には、ほんと、見倣って欲しい。
先程引き替えたボーディングパスは、磁気テープも何もないただのペラペラの紙だけれども、英・仏・独の3カ国語表記だった。そして、来る時にはプロペラ機だったが、「今度はどうかな?」と思ったら・・、今度も「プロペラ」機で、いざ、ウイーンへ出発!!