7月11日(土)バラオルトへ。エミリア宅に到着。

7月12日(日)山の湖へ

ブカレストへ帰る。

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 7月11日(土)。ソーダ水、パン等を積み込み、サヴィンには車を持って来てもらい、途中のブラショフまではまだインストラクター代わりについて来てもらうことにして、遂にバラオルトに向けて出発!
 名インストラクター・サヴィンのお陰で順調に進む。それにしても昨日は下手をすれば命懸けだっただけに、路上練習に付き合ってくれたみんなに改めて感謝する。ブカレスト中心部の混雑する部分を越えると、日本のように道路が縦横無尽に走っている、ということはなく、主要な幹線には交わる道もあまりなく殆ど一本道状態なので運転は楽だ。
 カルパチア山脈に入ると景色がどんどん「信州」のようになって来て、懐かしいものを感じる。ブカレストの中心部ほどではないにせよ、バカンスシーズンで避暑に行く人達で結構混んでいて、道の途中でそこかしこで、何やらおいしそうな匂いのするものを焼いては売っている。日本のいか焼き的な頻度でそれが売っているのでずっと気になっていて、ついにブラショフの手前の山の頂上当たりで、サヴィンと別れる前に休憩する時に、一皿買うことにした。それはミティテという名前で、にんにくを効かせた挽肉をソーセージ的な細長い形にして焼いたものだった。意外と、というべきか、匂いに似合って、とてもおいしかった。そこで体力気力をチャージしたところで再出発。暫く行ったところで先生・サヴィンを降ろし、少し不安になりながらもさらに行く。今までは先生のサヴィンが助手席だったが、これからはナヴィゲーター(というにはこの辺に行くのは初めて)兼通訳のマリウスが助手席に、私達の一人が後部座席に、というポジショニングで行く。マリウス、ちょっとずるいかも。
 山道をずっと行ったところで一度停ったが最後、まっちゃんが坂道発進できなくなって、立ち往生。何せマニュアル車での坂道発進なんて教習所以来で、急な上に砂利道と来ているので、全く自信はないが、この辺りは"後続の車"というプレッシャーはないので、人が変われば車の機嫌も直るかも、ということで、ラジエーターが少し冷めるのを待って、選手交代。私がチャレンジすることにする。まるでバンカーから抜け出せないかのように砂利にタイヤを取られ、往生するが、まっちゃんとマリウスが後から押してくれて、遂に脱出成功。少しなだらかになったところで二人を乗せ、あとは国道とはいえ舗装もされていない田舎道を時速100キロ前後でぶっとばす。(この場合、「舗装されていない田舎道だけれども国道なので~ぶっとばす。」の方が適切かも。)そうしているうち、道の表示がハンガリー系の言葉になってくる。マリウスは「この辺りの人達はルーマニア系の人にあまりいい感情を持っていないから、この車に何かあったら大変だから、僕は車を見張るために車の中で寝ようと思う。」という。そこまで怖いものなのだろうか?だとしたら車の中で寝るのは危険過ぎると思うのだけれども・・・。

 エミリア達には日本を出発前にこの日からこの日までルーマニアにいる、という大まかなスケジュールを伝えてはいたものの、電話がつながらなかったので、今そちらに向かっているということは伝えられていなかった。途中から何度か公衆電話より電話をしてみるが、電話機自体が壊れているせいか、全然つながらない。ここまで来たらとにかく行くしかないので、住所を頼りに何度か道ゆく人に道を尋ねながら進んでいくうち、気がつくとエミリア宅に到着!が、そこは集合住宅で、何号室に住んでいるかまでは判らなかった。日本のように一階にまとめてポストがあり、それで名前を確認すれば何号室かわかるという訳でもなかったので、下から順に名前を見ていくことに。
 まず、一階から。「O'lah」とある。まさにエミリアの名字だ!!「ラッキー!」と思い、ノックし、マリウスに「エミリアはいますか?」と、尋ねてもらう。ところが出てきた男の人は「はあ?誰それ?」とのつれない答え。「親戚ですらないなんて、どういうこと?」と思いつつ、「O'lah」はこの辺の「田中さん」か・・・と思うことにして、場所は間違いないんだから、めげずに次の階へ。「おっ、また「O'lah」だ。今度こそ!」と思いつつ、出てきたゴルビーの眉毛を黒々とさせたような初老のおじさんにまた「エミリアいますか?」と聞いてもらうと、私達を見て一瞬にして表情がゆるみ、「遠くからよく来てくれた。」と、涙を流して喜んでくれ、すぐにエミリアを呼んで来てくれた。エミリアは私達が急に来たので驚きつつも、大歓迎してくれて、その時来ていたエミリアの義理の弟さんを紹介してくれた。
 エミリアは、私達がルーマニアにいる期間中のいつ来てもいいように、色々と用意してくれていたらしく、早速手作りのお菓子とコーヒー、次いで自家製のサラミと白ワインでもてなしてくれる。みんなおいしかったが、特によく冷えた自家製の白ワインが最高!だった。フルーティーなドイツワイン系の(でも決して甘すぎない。)何となく今までのブカレストの食卓と比べるとドイツ・オーストリアに近いような気がする。かつてのオーストリア・ハンガリー帝国時代の影響と思うのは気のせいか?
 エミリアにはまだ1歳と少しの赤ちゃんがいる。具体的に何の病気かは判らなかったが何か先天的な疾患を持っているらしく、そのための薬はこちらでは入手困難だが、オーストリアでは手に入りやすいということで、グラーツのイングリッドからことづかってきた。あのキャンプ以降イングリッドとエミリアはずっと交流があったようで、イングリッドが彼女を何かとサポートしてきたようだ。最近家族でオーストリアに行ったこともあるらしい。ほかのお土産と一緒にそれを渡す。そんな赤ちゃんがいるのでどうかなあ、と思っていたのだが、「是非泊っていって。」と言ってくれたので、お言葉に甘えて一泊だけさせてもらうことにする。お父さんが「マリウスも一緒にどうか。」と言ってくださるが、マリウスは例の「この辺は私達にとっては物騒で、レンタカーに何かあったら大変だから、車の中で寝るつもり。」と言い出すので、「それって失礼なことと違うの?」とドキドキするが、「車は僕の家の敷地内の安全な所にいれ、扉を閉めておくから大丈夫。」と言って下さり、マリウスも納得し、泊らせてもらうことにする。

 車を安全な場所に移動させて、まだ日のあるうちにこの辺りを案内してもらうことに。まず向かったのはエミリアの職場である小学校。エミリアはここで化学と物理の先生をしている。ここで中学で数学の先生をしているエミリアのご主人と落ち合う。ルーマニアでは小学校は8年制で次いで中等学校に上がるというシステムなのでこのように細分化(「理科」の先生、というわけではなく・・。でも、化学と物理の先生ができるなんて凄すぎる、と、高校レベルの化学は好きだったけれども物理は全然できなかった私は思うのであった。)されているのだろうか。ご主人は口髭をはやしていて、(アラブ世界ほどではないにしろ、こちらではかなりポピュラーだ。)先に会った弟さんとはあまり似ていなくて座って写っていた写真で見た感じよりずっと背が高く(それだけ足が長い。)、こちらでは最新のファッションと思われる白地に大きくアディダスのロゴが入ったTシャツを来ていた。(そういえばマリウスやサヴィンは自分達でもおそらくパチ物と思いつつも、それしかないのでスゴいシルエットのトルコ製のリーバイスのジーンズをはいていたなあ。また、こちらの人達が中国製の衣類や万年筆、おもちゃなどを「いいもの」と思っているのには驚いた。確かに彼等が買える範囲のものでは最高品質なのかもしれない。日本製などはさらにいいとは思いながらも手が出ないし物も少ないのが実情のよう。それにしても中国は「共産圏」時代のルーマニアからの長い付き合いですっかりルートを築いているようで、ルーマニアの民主化の後もそれをフルに利用してさらに流通の量を増やしているみたいでその商魂の逞しさに恐れ入る。でも、もっと悪どい!と思ったのはアメリカのやり方で、CNNなどのメディアを通してチャウシャスク処刑のシーンなんかをさんざん流しておいて、「ここはこういうまだまだ危ないところなので投資は控えたほうがいいですよ~。」と言って日本のメディアのように外電をそのまま自分の目で確かめることなく流す(そうじゃないですか?)ところをその気に(?)させておいて、自分達は自分達の国ではとっくにご法度になっている強い煙草のコマーシャル(日本でもやってますが・・・)をバンバン流し、どんどん売って市場を占領しているのだった。そういう意味ではよその国を惑わして抜け駆けするわけではなく、昔からの関係を生かしている中国のやり方はしごく当たり前なのだろう。まあ、ビジネスの世界ではアメリカのようなやり方も別に問題ではなく、むしろ「噂」に惑わされてマーケットを逃すほうが問題なのだろうな・・・。)
 話が横道にそれてしまった。その小学校で創立者のレリーフになった素焼きの丸いプレートを貰い、次の目的地であるエミリア達が通っている教会に行く。ルーマニア全体としてはメジャーな宗教はロシア正教やギリシャ正教と同じ流れのルーマニア正教(オーソドックス)なのだが、この辺りではカトリックがメジャーということでここも例外ではなくカトリックの教会だった。ここはそんなに大きな町ではないので教会も比較的こぢんまりしているものの、なかなか歴史がある教会のようで質素だが美しかった。正教徒のマリウスはカトリックの教会に行くのは初めてだったらしい。そういう意味では宗教や宗派を自由に行き来する日本人というのは、いい加減なようで、それ故に争いの種になることもなく共存できて、いいのかもしれない。
 そのあと5人でビアホール的な上がテント張りの大きな屋台的なところに行き、弟さんも合流し、ハンガリービール(だったと思う。)を飲む。帰宅後みんなで私はそこまで日本で見る機会を逸し続けていたツインピークスのルーマニア語版を見るが、先程のまだ日が高いうちに飲んだビールが長旅に疲れた身に効いたのか不覚にも眠ってしまったのでこの辺りのことはあまり覚えていない。

 その後ぐっすり寝てしまいバラオルトでの記念すべき一日目は終わり、明けて今日7月12日(日)、名残惜しいながらもバラオルトを発つ。そこで、彼等が提案してくれたプランのうちの一つを選び、彼等お勧めの湖に行き、昼食を採った後別れることに。
 まずエミリア達が自分達の無骨なロシア製の車で先導してくれ、私達がついて行く。途中エミリア達が停るので「何か?」と思うと、そこは。あの来る途中私達が坂道発進で立ち往生した魔の場所ではないか!「なんでこの場所を知ってんの?」と思ったが、実はそこは有名なミネラルウォーターが湧いてくるところだったのだ。よく見るとわざわざ効能書きが彫られた石板が嵌まり、コップまで備え付けられている。飲んでみると、下の地面が何だか赤銅色をしているだけあり、どことなく錆の味がする上に、噂には聞いていたが、ほんとに天然に炭酸が入っていて驚く。日本でミネラルウォーターといえばガスなしに決まってんのに!これでようやく1977年のキャンプの時のホームステイで感じた「何であんなまずいもの買ってまで飲むのだろう?」という謎が少しは解けたような気がした。自然がガス入りならば、ガス入りが好きなんだろうな。ここを後にしようとする時には、私達の後に並んで待つ人までいて驚く。
 この後、シュテファンの車を彼等の親戚の家に預け、私達の車をシュテファンが運転して、5人で湖へ。この車を運転することをとても喜んでもらえる。私達も運転から開放されて、お互いにハッピー。エミリアは最初に聞いていた通り、第2外国語がドイツ語だったので(この年代の人の場合、第1外国語は勿論ロシア語!)英語はよく判らない、ということで、英語が判るシュテファンが通訳をしてくれていたのだが、彼の英語が本当に流暢なのに驚く。英語を実際に話す機会は殆どないはずなのに。私達日本人が英語を話すことが不得意なのを「機会」のせいにしてはいけないのかなあ、と考えさせられた。
 暫く行くと、私達がルーマニアにいるのと同じ時期にここに来ているとエミリアが言っていた、エミリアのスウェーデンに住むおじさんおばさんと従弟妹達にばったり会う。彼等はここまでベンツのキャンピングカーで来ていたり、日本製の8mmビデオカメラを持っていたりして、そのリッチさ加減に驚くが、だからエミリアの家には彼等が教えてくれたお給料の割には物が豊かなのか、と納得もした。
 さて、目的地の湖につく。湖のほとりから少し山手に行ったところに小さな教会があり、湖に住む怪獣を鎮めるために人身御供として湖に身を投げた可哀相な王女が奉られているという伝説がある。湖は琵琶湖とは比べ物にならない小ささだが、天然のプールということで沢山の人達が泳いでいた。
私達はそういった人達を肴に(?)芝生の上にエミリアのおばさんお手製の、おいしいクッキーをお皿に並べ、コーヒーと会話を楽しむ。ここで、キャンプの話が出て、エミリアに私達日本チームが日本の歌として歌ってみんなに教えた「さくらさくら」を歌って欲しいといわれ、歌ったところ、感激してくれたエミリアに泣かれてしまう。そこでお返しのつもりでルーマニアの歌を歌うわ、と言ったところ、「何の歌だった?そんなのあったっけ?」と2人とも言うので、覚えていた「トライアスカルーマニア、トライアスカトリ-コロール、トライアスカ・・・・」という歌を歌ったところ、「あー。チャウシェスク万歳の歌ね!」と、みんな笑いながらさえぎるので「ああ、みんなは国の代表として覚えていたくもないような歌を歌わされていたんだ!」と驚いてしまった。そこからまたあの実はセキュリティーだったイオンの話になり、エミリアは彼にプールに突き飛ばされたりもしていたらしいということを聞き、また、親が持たせたお小遣いも外貨に交換され、雀の涙ほどの子供に持たせる分を除いてはみんな彼が管理して、いつの間にかちょろまかされていたことも聞き、ただただ驚くばかりだった。ただ、エミリアは、それでもなおあのキャンプは今までの人生で一番幸せな思い出。といい、キャンプで歌った歌を色々歌っては、あの時のようにはしゃぎながら涙ぐむ。結局、少し意味合いは違うが、キャンプに対しての思い入れの深さがみんなに会わせてくれたのだな、と思った。そして、エミリア達は去年、イングリッドの招待でオーストリアに行った時、馬鹿正直に帰ってきてしまったけれど、あの時国を捨て、あちらに紛れ込めばよかったと後悔している、とも打ち明けた・・・。
 話が深刻な方に行って、どうしていいのか判らなくなりかかってきたところに、先程会ったエミリアの親戚の人達がやってきて、記念撮影モードに。そして、そろそろここを離れることに。いざ出ようと駐車場にいくと、知らない間に「満車どころか!」状態に。普通だとどう考えても出られないくらい前も後ろもキチキチに縦にも横にも車が並んでいる。仕方なく、エミリアが後ろの車をどかせながら、シュテファンがずーっと逆走するというハプニングが起こる。私達だけならとても出られなかったと思う。

 そして、私達には見慣れない地平線が見えるような一面の原っぱの向こうになだらかな丘が見えるところを通過して、最終目的地である山のリゾートホテル&レストラン「カルパツィ」へ。ナディア・コマネチ系の顔の(コマネチもハンガリー系ということだ。)チーフウエイトレスの人が、殆ど一人でお客を裁いていた。メニューを配ってくれるが、結局ランチはコース1種類のみのようで(ここに限らずレストランではメニューに色々書いてある割に、実際に出来るものは1~2種類のみだったりして、「だったらメニューを配るなよ!」という気になる。ただ、メニューにターキッシュコーヒー(伝統的な飲み方)と並んで必ず「ネス」というのがあるので(それは紛れもなくインスタントコーヒーのことですが、こちらの方が高かったりする。)それをどちらか選ぶために配ってるのか?と思いたくなるほどだ。結局その唯一のランチメニューであるポークチョップを頼み、ターキッシュコーヒーを頼む。なかなかおいしかった。後でマリウスに聞いたところによると、「ここは高くて、普通じゃとてもじゃないけど来られない。」くらいのところだったようだが、シュテファンにご馳走になってしまった。
 レストランを後にして、車を再び交換して、再会を誓いつつ、彼等と別れる。彼等は上に戻り、私達は下へ行くのだった。

 途中で少し道を間違えたせいで、ブカレストに着いたのは夜結構遅くだった。特に大きな出来事もなく、ブカレストに出来るだけ早く着きたい一心で車を走らせた。
 そして、へとへとに疲れつつ、サヴィンのお母さんの家で夕飯をご馳走になった。その食事の前に、この間ブラショフで別れた後、サヴィンがブカレスト行きの切符を買う時に、窓口で、つい英語で切符を買おうとしてしまったという話を聞き、みんな大笑い。でも、それほどまでに私達と気を遣いつつ英語を話してくれていたなんて・・。と感激する。
 例によっておいしい食事を終え、私達が泊めてもらうサヴィンのフラットへ向かう途中、暗いせいと(街灯がとても少ない。)、舗装途中で道が放置してあるせいで、信じられないことに20センチ以上出っ張っているマンホールに乗り上げてしまい、左側のタイヤが2本ともパンクしてしまった。今まではそういう道に出くわす度、「Victory of Socialism!!」とシニカルなジョークを飛ばしつつも事無きを得てきたサヴィンだったが、明日ジムニチェアに行かなければならない今、深夜にこんなことになってしまった。
 疲れが頂点に達しているはずなのに工具箱を開け、油で手を黒く汚しながら何やら作業をする二人のエンジニアを階下に残し、心配しながらも何も力になれないので部屋に戻る。
 部屋には下宿人のジョージアナが待っていた。ジョージアナは夏のこの辺りでは珍しく、いつもストッキングを穿き(これ自体が非常に珍しい。)、いつも綺麗にしていた。今ブカレスト大学で法律を学んでいるらしいが、もともとは他のことを専攻していて学生結婚し(こちらではよくあることのよう。)、子供もいるのだが今はまた勉強を続けるために単身こちらにいて、週末家族の許に帰っているらしい。
 ミステリアスな大人といった風情の人なのでずっと年上かと思っていたが、筆談を中心に、写真などを見せてもらいながら話してみると実は年が近いことなどが判り、話が盛り上がる。今はとても細い人なのに、学生だったころの写真を見るとかなりふっくらとしていて驚くが、ダイエットによる変貌?で老けたのだろうな、と、納得した。
 時折窓から下の二人を見るが、全然上がってくる気配がない。あまりに気の毒なのでここにいる女3人で夜食を作っていると、「直った!」と二人が現れた。「お店も開いていないこんな夜中にどうやって!」と狐につままれた気分だった。さすがエンジニア!?二人とも疲労困憊した様子の中にも満足感が感じられた。サヴィンは夜も遅いから、と、家の方へと帰っていった。夜食も食べずに気の毒!!ただ、これで明日問題なく(ほんまかいな。)ジムニチェアに向かうことができる。大移動の後なのでいつもより早く寝るという予定はすっかり狂ったが、おかげでぐっすり眠れそうだ。