L'histoire de "La Neige"

ラ・ネージュの物語

―1994年4月記―

I.. La neigeの過去(これまで)

 1992年1月13日。金崎先生との雑談中、まるで目から鱗が落ちたかのように、それまで私が考えていたことを実現するのにどうするのが最適か、という問いに対する答えが見つかった。それがスペースとしてのラ・ネージュ着工の始まりだった。

 そもそもその直接のきっかけは、1991年オヤジのようなOL生活を経た後、あるアーティストの方の下、大阪の古くからのオフィス街にある取り壊しの決まった4階建てのビルを、壊されるまでの間美術館にしようというプロジェクトに参加する機会があり、「私ならどうしたいか。」と、考える機会を与えられたことだった。私自身、ちょっとスパイスの効いた美しいものは大好きだけれども、行く度に込んでいて、なんとなしに暗くて、見終わった後どっと疲れる大きな美術館や、小さな空間に売り手の人や出品している人がいて、買わずに出ることや、感想を求められることにためらいや窮屈さを感じる画廊に足を運ぶのは億劫な方で、理由の如何はいざ知らず、周りの友人も主にあまりそういう場所に出入りしない人たちだったので、オフィス街であるなら、私自身も含めてそういう人たちも巻き込めないと面白くないと思い、徹底的に自分が欲しいものを考えた結果、『1階はオリジナル・ミュージアムグッズの売り場で、人寄せの意味で、エコロジーの観点から英字古新聞に包んだ焼き芋テイクアウトコーナーも作って、最上階の4階をビアホールにして、壁やフロアにアートがあって、照明も、机も、いすも、食器もみんなアートにして、1階の出口へ降りるには2階・3階の展覧会場を通らないと行けない。そんなビルにする。』という案を思いついた。「そんな仕組みを作ったら、知らず知らずのうちに、一般の人達(?)と、アートの間にある壁のようなものが壊れるのではないかなあ。そして、アーティストの人達も、何がしか、触発されることもあるのではないかなあ。だって、普通の人にも訴えるものがなかったら、アートって意味ないやん。」と思ったからだ。

 この考えがいたく気に入ってしまった私は、そのプロジェクトではこの案が実現しそうになくなったので、そこから離れ、何とか自分達でこれを実現させることはできないかと考えた。初めのうちは、もともとこれを考え付いたきっかけが、「もし美術館をつくるとすれば」というものだったので、一般の人と、アートのイベントができるようなアートのイベントができる場所とつくるということにとらわれていたのだが、そのうち、なぜ自分がこういうことを考えるに至ったかを突き詰めていくと、結局、「みんながハッピーで、世界が平和であればいいのに。そしてそのためにはあらゆる偏見がなくならなければ。」ということに気付き、改めて、自分の創りたいものは、「アートを媒体にするにせよ、イベントを媒体にするにせよ、商品を媒体にするにせよ、『おいしいものを食べて幸せになる』とか、『面白い人・物と出会って楽しい気持ちになる』とか、ハッピーな気持ちを理屈ではなくて体感する事のできる場所」なんだ!と、思ったのだった。

 その後、『信長とワイン』というテーマを少し勉強しておいてくれ,という依頼があり、信長とその時代にまつわるエピソードを描いた本を集中的に読む機会を得た。丁度その頃、冒頭の金崎先生との雑談を持ったのだ。

 確か、その以前から、前記のような場所を作るために、町中にいい貸しスペースはないかなあと物色していたのだが、なかなか条件に合うようなものは見つからず、ましてや高い賃貸料を考えると、初めから凄い勢いで商売にならなければならず、かといって、自分のやりたい事は、そういう性格のものでもないので、どうしたものか行き詰まっていて、かといって諦められず、「何とかならないものでしょうかねえ・・。」といったようなことが、会話の始まりだったような記憶がある。そしてどういう経緯か、うちに祖母や父が、ゆくゆく茶室を建てようと思っていた、当時北側のちょっとした庭になっていた土地があることに気付いた。

 金崎先生にお話すると、「どうしてあのスペースを考えないのかずっと不思議に思っていた。」という答えが返ってきた。それまで、「本当にそこでやっていることが魅力的ならば、世界のどこにあっても人は集まる。」という例も見てきたつもりなのに、「多くの人に訪れてもらうには、町の中心でないと・・。」という考えにとらわれてきたことを自分でも不思議に思った。ましてや私は、この生まれ育った伏見桃山の地に特別の愛着を持っているのだ。秀吉の立てた伏見城の城下町であり、京都と大阪を結ぶ交通の要所、港町でもあった伏見。今もその町名や、飾らなくてオープンな土地の人柄、歴史を伝える建物に、その頃の名残が残っている。そして、酒処伏見。それまで中学以来、京都の碁盤の目の中にある学校に通っていた時に、電車も通っていない、明らかに後から開けたところに住んでいる人達に田舎呼ばわりされるたびに悔しい思いをしてきて、いつか巻き返しを図りたい、と、思ってきた。その巻き返しを図るチャンスが、微力でも創れるかもしれない。そんな思いが込み上げてきた。

 伏見桃山が城下町として栄えた時代・・・。そのことを考えた時、ふと信長に関する本を読んでいた時に気になっていた事柄が蘇ってきた。それは、その当時の茶室のことだった。それは、無論、単に茶を点て、飲む場所ではない。にじり口をくぐると、その中に入った人達は等しい立場になる。茶室そのものは勿論、道具やしつらえのひとつひとつは、亭主のある意図に沿って入念に選び抜かれたアートである。視覚だけでなく、触覚、味覚、嗅覚、聴覚・・・五感に訴えるもの全てが、季節感などなどその時々のテーマに沿って、ただ一つ、入った人全てが「和める」という基本コンセプトだけはいつの日も変わることなく、入念に選ばれているのだ。そして、そこでは、様々な出会いがあり、巷でよりも、より密度も質も高い情報が行き交う。勿論その取り込む範囲は幅広く、地域は勿論の事、時には南蛮渡来の文物まで紹介されることもある。そんな場所。――そうだ。私の作りたかったものは、その茶室だったのだ。と、思った。父と祖母が茶室を建てたいと思っていたところに、私はやはり茶室を建てることになったのだ。それも茶室があることに必然性のある、この伏見桃山の地に。

 これら一連の話は1時間ほどの間に一気に盛り上がり、「敷地は狭いですが、是非プランニングをお願いします。」ということになった。

 ラ・ネージュという名前自体は私が会社を辞めてひとりで動いていた時に、初めから次のような意味を込めて、将来の屋号と決め、名刺にも刷っていたものだ。

 「ラ・ネージュ=フランス語で"雪"の意」。多くの人が推察されるように、私の名前が”ゆき”というのも勿論選んだ理由の一つだ。だが、それよりも、私の両親が”ゆき”という名を選んだように、それが「雪月花」というように伝統的な日本の四季折々の美しい眺めをあらわすものの一つであること。そしてさらに、白い=素直な純粋な心、何者にも染まらず構成であること。雪=一つ一つは小さな結晶でも、たくさん集まれば雪崩をも引き起こす力があること。「雪ぐ(そそぐ)」という読み方もあるくらいで、汚いものでも浄化する力があること。――こういった意味があるから。また、初めての名刺を作る時にいたく気に入り、シンボルマークとして選んだ雪の結晶模様は、中心の点から六方に放射線状に線が出て、それぞれに枝も出て、その六方に伸びた線の先がハートになっているというものなのだが、それはまさに、「初めは小さなことから始めて、そのうちネットワークが出来て、それに関る全ての人が、やがてハッピーになる。」という私の夢そのものを表わしているようだったからだ。フランス語を選んだのは、日本語の“ゆき”だと、私の名前以上になかなかイメージを膨らませてもらえないし、響きが綺麗で、英語ではない外国語だからだ。

 だから、ラ・ネージュの建物を建てる際、私はまず次のようなことを金崎先生にお願いした。

1:ラ・ネージュの理念を表すものであること。

2:前述の茶室(つまり、ギャラリーにもなる多目的ホール。)として使えること。但し、その形はあくまでも日本の20世紀末の“今”を表し、しかも普遍性があること。

3:この伏見桃山の地にある意味があり、しかも世界に通用するものであること。

4:あくまでもプライベートな敷地にあるので、私が将来家族をもつことも考えて、「住宅」としても使用できるもの。

5:何かを飾って初めて面白くなる空間ではなくて、空間それ自体が楽しめること。

 先生は快諾してくださり、これから私が仕事をやっていく上で、必ずやプラスになるはずなので、「いいもの作りのプロセスとはこういうものだということを見せてあげよう。」と、言ってくださった。

 そもそも金崎先生との出会いは6年前、自宅を増改築した際、冒頭の「美術館プロジェクト」に誘っていただいたアーティストの先生に紹介していただいたことに始まる。金崎先生は、もともと京都市立芸術大学の彫刻科を卒業され、彫刻家としても活動された後、インテリアデザイナーを経て建築家になられた方なので、その仕事の折も、いわゆる大きなところの設計は勿論のこと、いくつかの椅子を除いて、全ての家具デザインもトータルにしていただいた。よく、(不況で建築の仕事が取れないという事情があるにせよ、)「イタリアの建築家は筆記具やカトラリーに至るまでデザインする。」といわれるが、先生もまさにそういうことのできる人なのだ。(一貫した美意識があり、特に大きな空間がデザインできる人であれば、その中に存在すべきもの総てをデザインしたくなるのは当然のことだと思うのだが・・。)しかも、自分の主張を通すあまり、中に住む人のことはお構いなし、という人でもない。こうしたことは、改築のプランの時から明らかだったが、それは、その後もずっと私達がそこに心地よく暮らしている事により、益々確かになった。こういった出会いがなければ、この茶室建設を思い立つこともなかったであろう。

 そして、まず普通であれば、いわゆる“施主”には見せないような、ラフスケッチから構想段階の内部や正面のイメージデザイン数種類、さらにそれから起こした模型を使用してのシュミレーション写真を提示することから始めてくださった。その中から、前述の条件を表すのに最適なものを、話し合いによって見出していった。

 さらに、もう一つ重要なのは、一体こういったコンセプト、そしてデザインを、誰に形にしてもらうかだ。私達親子としては、改築した家に心地よく過ごせているもう一つの理由は、その仕事の際金崎先生に、「もともとの家を建てていただいた工務店さんも日本建築にかけてはとても有名で、ご覧のとおりとてもいい仕事をされるところですが、先生のプランを実現させるのに最適だと思われるところがありましたら、そこでお願いします。」と、申し上げて紹介していただいた根木建設工業さんに、その後のメンテナンスも含めていい仕事をしていただいた事だと思っていたので、その根木さんにお願いしたいという気持ちがあった。

 私達の気持ちも汲みつつ検討された後、結局、根木さんの、でも、自宅の改築の時とは工法が異なるので、それに最も適したメンバーが担当してくださることになった。さらに根木さんが、土建屋さん、大工さん、水道・ガス設備機器、電気設備、空調、石、塗装、クロス等々の業者さんの、また、金崎先生は構造設計、設備設計、照明、家具製造などなどのそれぞれ最強のメンバーを選んでくださり、ラ・ネージュ・プロジェクトが発足した。

 その後、母屋の納屋を改造した、現在ラ・ネージュの倉庫に使っているところが現場事務所になり、それぞれのプロの方々がラ・ネージュを最適な形に実現するため、侃侃諤諤議論を戦わせてくださったようだ。

 いいメンバーが集まると、難問が出てきた場合、難しいからやめておこう、という形で無難に収まっていく方向ではなく、何とかそれを実現させよう、というベクトルでことが動くらしい。例えば、金崎先生が、造る時のことを考えて、少し簡単めに図面を描いておられた部分が、図面より難しく美しい工法で出来上がる、などということもあったようだ。また、全体に気合の入ったレベルの高い仕事がしてあると、少しでも出来の悪い部分は自ずと目立つようで、私などは「えっ、どうして?」と思うような微小なミスでも、言われて直す、というよりは、自主的に全面的な作り直しや、取り替えが行われていたようだ。

 私は邪魔になることを恐れて、それに、何だか照れくさくてあまり現場には出入りしなかったし、現場事務所のミーティングには参加していなかったので、ほんとうはもっと印象的なエピソードがあるのだと思うが、私の知っているレベルで特に印象に残ったことを挙げようと思う。

 1.まず、普通ならそれ用のコンピューターソフトに、ポン、ポン、と、数値を入れればすぐに出来るはずの構造計算が、手計算によってでないと出来なくなり、それにとても時間がかかったこと。 2.「外壁には漆喰の白を!」と、要望していたのだが、ノリのよさ、耐久性の点、仕上がりの点から、最終的に万博の“太陽の塔”に使ったのと同じ塗装になったこと。 3.吹き抜けの天井の塗装を、高くて細い足場に乗った、ベテランの小柄なおじいさんが背伸びをしながら塗っておられたこと。 4.3階の床の部分の曲線が図面だけではわかりにくかったようで、うちの庭でわざわざベニヤ板で原寸大の型をとっておられたこと。 5.シンボルとなる大きな凹型の窓は、形が複雑な上に、少なくともガラス屋さん、サッシ屋さん、大工さんの分業で作られていたため、特に苦労されていたが、中でも特に、やっと出来たと思ったら、ガラスの網目模様が斜めになっていたためにやり直しになったこと。 6.床の大理石タイルは、バラのタイルを敷き詰めるのと、コストの面でも大差がなく、目が揃うため、大きな大理石から切り出すことになったのだが、目を揃えるため、床を貼る職人さんが持っていた図面には、タイル一枚一枚の番号がふってあり、その通りに貼られていたこと。 などなど、本当に忘れることが出来ない。

 私達も、参加できる範囲で思い切り参加させてもらった。特に家具や内装の材質・色を決める際には、“ラ・ネージュ”のイメージを実現させるべく、拘って選ばせてもらった。

 その際、例えば初めから、“ラ・ネージュ”=「白」という基本はあったとしても、「白」と一口に言っても、灰色がかった白から、アイボリーがかった白まであるし、素材によって、それらが更に、冷たい感じに偏ったり、暖かい感じに偏ったりする。さらに、その白を引き立たせるための、または、その白によって引き立たされる、ポイントになる色に何を使うかというのも、とても重要なポイントだ。

 それらを選択する際、常に色を決めた上で、さらにその色の幅の、少なくとも3種類ほどの色を実際に使う予定の材質に塗装をして、見本にしてもらえた中から選べたのはほんとうに幸いだった。例えば、1階のキッチンの家具の扉の場合、木の上に、和紙を貼り、その上に透明の塗装をしたのだが、生地の木の上に、まっ白、黄みがかった白、灰色がかった白の3種類の色の、それぞれ肌理の荒いのと細かいのと2種類の和紙をもんで皺くちゃにしたのを貼ったのと、そのまま貼ったののさらに2種類の、計12種類の中から選ぶ・・という具合であった。

 そういった具合に出来た、この建物は、依頼者・設計者・施工者の魂がこもった、まさに、当初から目標にしてきた“ラ・ネージュ”そのものとなった。

 その間、プライベートでは、大筋の案がまとまった頃、私は母とヴェネツィアのカーニヴァルに参加し、さらに、ローマ、フィレンツェ、シエナ、パリ、アムステルダムを周る機会があり、あちらでしか手に入らないもの(ベネツィアングラスのシャンデリアとか・・)を購入し、あちらのギャラリー、美術館を見る機会に恵まれた。

 そして帰国後、茶室の主になって、ましてや結婚でもすることになってしまえば、そうそう気軽にあちらこちらを飛び回れなくなるからと、かねてから実行したいと思っていた、自分に果たして海外のネットワークがまだあるのかを確かめるための旅、“Do you remember me? Tour”を実行に移し、8カ国18人の友人のもとを訪ねた。

 そして、図らずも、以前から親しい友人には漏らしていた、「今は(’92年6月頃。)とりたててちゃんとしたボーイフレンドがいるわけではないけれども、(少なくとも半年から1年前から予約しないと場所が取れないような)式場の都合で結婚の日取りを決めるということをしなければいいだけで、私は四柱推命でも六星占術でも西洋占星術せも結婚にいい年と出ている今年年内の結婚をまだ諦めていない。」「仕事を本格化する前に、できれば結婚して精神的にも落ち着きたいし、できれば結婚相手と一緒に仕事をやっていきたい。」「子供も生まれるまでには一年かからないわけだし、(しごとをきちんと)始めてしまえば子供を持つことが考えにくくなるだろうし、できれば仕事を始める前に子供も産んでおきたい。そうなれば、子供はこの新しくできるスペースと共に成長してきっと面白い子になる。」という一念の甲斐あってか、その旅で、結婚を決意するルーマニア人男性との再会があり、その、ボーイフレンドすらいない頃から漏らしていた、結婚から出産までがフルコースでやってきた。

 その、私が結婚したマリウスは、タイミングのいいことに、結婚を決意すべく、’92年11月にこちらに1ヶ月やってきた時には上棟式、あちらで結婚式を挙げ、こちらの住人となるべく’93年5月にこちらに帰ってきた時には竣工式、と、節目節目に参加する事が出来たし、勿論これからも、ずっと一緒にここを築き上げていく。

 "Do you remember me? Tour"を契機に、この“ラ・ネージュ”計画は、既に、デンマーク、スウェーデン、フランス、ドイツ、オーストリア、アメリカ、カナダ、ポーランド、ルーマニア、メキシコの友人の知るところとなり、そのうちスウェーデン、フランス、ドイツ、アメリカ、メキシコの友人は完成前後のこの建物を訪れている。カナダの友人も、この5月末にはここを訪れ、ここの住居としての昨日を試す事になるだろう。

 そんなこんなで、’91年来の“ラ・ネージュ”計画を知っている人は勿論のこと、’93年の5月にこの建物が出来ていることを知っている人、10月に有限会社ラ・ネージュをつくったことを知っている人は口々に、「イベントはどうですか?」「オープンはまだですか?」とおっしゃるのであるが、私も決して止まっていたわけではない、思う。

 以前、私は、どちらかといえば外からの、「一体何をしているんですか?」という白い目(?)に耐えかねて(?)、金崎先生は、後期の遅れを気にされて、’92年年内にオープンを目指していた時期があり、色々難しい要求に最善を尽くしてもらっていたため、遅れていた工事を急に急かそうとしたことがあった。その時、根木さんサイドが「今まで丁寧にやってきたものを、ここで急にやっつけ仕事にするのはどうか。」と、それまで通り、きっちりした着実な仕事を最後までやり通すべし、と、示唆してくださり、逆にこちらもほっとしたということがあった。こういう示唆がされるということは、何でも手っ取り早く片付けてしまえ!という今日の風潮にあって異例のことだと思うし、いかにこの仕事を大切に考えてくださっていたか、そして、“ラ・ネージュ”の理念をよく理解してくださっていたかを知ることになり、感銘を受けた。後から聞いたことだが、そのせいで、現場監督をしてくださっていた山下さんは、結婚式を延期しなければならなかったらしい・・。私のプライベートなことを考えても、国際結婚の手続きや、初めての妊娠、出産、子育ては、そんなに簡単なものではなく、あの時もし見栄で押し切り、12月末に始めていたらどうなっていたかと思う。

 そして、1994年、3月。私が目指していた、有機的な広がりの一つの成果として、照明を担当してくださったコイズミさんが、この仕事を車内コンペに出されて、優秀賞を取られた際、編集長が審査員をされていたご縁で、このラ・ネージュが『商店建築』誌の3月号「個性派ミニギャラリー」特集に、“ギャラリー”としてではあるが、これまた改築後の家を撮影していただいた時からのご縁の松村さんの素敵な写真で掲載された。

 そして、「時が解決してくれる」「時が満ちる」というが、1994年4月。ようやくスタートする時が来た。

 

II. La Neigeの現在(いま)

 オープニングは、今まで暖めてきた、“ラ・ネージュ”そのものの展覧会です。

 実は今までも何人かの人がうちを訪ねていらした時に、このスペースを“お見せ”したことはあります。

 その時は、まだこちらの「見せる」体勢も整っていなかったし、ましてや今までのような説明もしていなかったので、「確かに建物はきれい。ところで何すんの?」という反応が殆どで、その度にがっかりしてきました。それで、今回、くどいようですが、このような“ラ・ネージュ”の経緯について書いておくことにしたのです。

 本当は、こんな事を言わなくてもそれが伝わるようでないといけないのですが、私の力不足で先のような反応を招いてしまったので、ラ・ネージュの建物自体。そして、そこに選ばれて存在するもの自体が、ラ・ネージュの理念を表現するための作品そのものであり、さらにその理念を有機的に発展させるためのキャンバスであり、ステージであることを理解してもあることが必要だと思われたからです。

 このスペース“ラ・ネージュ”に着工したころ、東京のアートディレクターの方にお会いした際、「老婆心かもしれないけれど、例えば、最低向こう1年間何をやるかのスケジュールも決まっていないのに着工するなんて、建築家の人に利用されているだけなんじゃないの?」と言われたことがありました。

 私は逆に、常々、そのスペースがどんなものになるか判らなくて、そのスペースに合うかどうかも判らなくて、よくそれだけ先のことが決められるものだ。と、思っていましたし、理念もなく、それこそ何にでもなるように賃貸の収益目的で造られた四角い箱や、その四角い箱を利用して何かをするなら、何をやるのか決まっていないのにその四角い箱を造ったり、そういう場所を借りたり、ということは言語道断なのでしょうけど、そういう四角い箱ではないスペースが存在しうるということ、そして、ラ・ネージュの理念、「できることから始めて、それが多角的に、有機的に発展して、関る全ての人がハッピーになって、世界が平和になれば」にもある、「有機的に発展する」ということがあり得る、ということを信じて、こういうやり方を取りました。

 そういった意味からも、どちらかの一方的な片思いではなく、この理念に共鳴してもらえ、このスペースが好きになってもらえない限り、そして、私達もその方の作品、ご提案に共鳴できない限り、即ち、“両思い”でない限り、ここで誰かに何かをしてもらうということは有り得ないのです。

 その為に、この「魂のこもった」ラ・ネージュそのものを見てもらえる期間を設けました。

 期間は1994年4月13日(水)から5月20日(金)までです。時間は午後1時から6時まで。休館日は月曜日と火曜日。というのが基本ですが、特別なあなた様のご要望とあれば、承れるかもしれませんので、この他の時間帯に見てみたいというご要望があれば、お電話(075-622-5770)またはファックス(075-622-9514)をください。また、何分少人数で運営しておりますので、何か急な用事でどうしても私どもが外出しなければならない事態がないとも限りませんので、前もってやはり電話を入れておいていただいた方が、ご迷惑をかけることがないかと思われますので、お手数ですが、よろしくお願いいたします。

 ずっと暖めてきたこの“企画”。構想段階でお話した時のたいがいの「建物の披露って、それで?」「ところでオープン何やるの?」との声に負けそうになっていたのですが、ある夜、ここに床暖房を効かせて照明をつけ、お気に入りのCDをかけ、床にぺたっと座ってボーッとしていたところ、とても心地よかったので、やはり踏み切ることにしました。

 白い壁には自分の好きなものを想像できます。例えば、何も飾っていない美術館に行って、自分の好きなイメージを膨らませてみたいと思ったことはありませんか?何となく、何もないところで瞑想して、心からリラックスできたら?と、思ったことはありませんか?お仕着せのものをありがたがって見ることになれて、イメージが膨らまなくなってしまった心には初めはちょっとしんどいかもしれませんが・・・。「自分自身」を見つめなおしてみませんか?

 

III.La Neigeの未来(これから)

 「ラ・ネージュ」の目指すものは「世界平和」です。そう書くと、何を大げさな!と、言われるかもしれませんが、例えば、もし世界が平和でなくなれば、私達夫婦は離ればなれに引き裂かれるかもしれないのです。

 私がルーマニアの人と結婚する、と、決意した時に、多くの人から、「あの国は今安全なの?」と聞かれました。ある種安全だttからこそ、私も行って帰ってくることが出来、結婚を決意するような出会いもあったわけですが、安全でない国に住んでいる人には幸せになる資格がない、ということなのでしょうか?そして、もし今の日本がほんとうに平和で安全なのだとしたら、どうしてその平和や安全をもっと多くの人にも与えようと思えないのでしょうか?また、そう言った人達の、「日本は今は勿論、永遠に安全だ」という根拠のない(根拠があれば教えてください。)自信に恐怖感を覚えました。

 私を“Do you remember me? Tour” に駆り立てるきっかけとなったのは、1977年にオーストリアのグラーツという街であった、C.I. S. V.(Children's International Summer Village) のサマーキャンプに参加した事でした。そのC. I. S. V.というのは、アメリカの児童心理学者、ドリス・T・アレン女史が「世界平和実現のためには世界各国の子供達が子供のころから友達になることが望ましい」という理念に基づいて創設した団体で、その為の交流の場としてのサマーキャンプでは、「それを効果的に行うには、時刻人としての意識がある程度確立しながらも偏見なく他を受容でき、言語の違いに関らず理解し合える11歳が最適である。」という考えに基づき、夏休みの約20日間、世界各地に 世界各地から11歳の男女2名ずつに21歳以上のリーダー1名という組み合わせで共同生活を送るのでした。

 もともとそれに参加する前から、同級生のお母さんが先生だったことや、祖母が好きだったことからお茶を習ったり、日本の事には興味があったのですが、そのキャンプで「なんや、肌の色や国が違っても、いい奴はいい奴やし、もひとつな奴はもひとつやし、おもろい奴はおもろいし、おもろない奴はおもろないし、日本の中でもどこでも同じやん!」という強烈な印象を受けました。

 そしてその後、女史の思惑にまんまとはまったのか、イスラエルでミサイル攻撃された最初の場所がキャンプに来ていた友達の出身地だったハイファだった湾岸戦争も、革命により世の中が真っ逆さまになって、下手したらあそこにはもう誰も生きていないように見えた東欧での革命も他人事ではありませんでした。 だから、私がこういう風に思うのも、決して結婚に始まったわけではないのです。

 そして、ましてや今、私は母親になりました。そうすると、今までよりも、「平和でなくっちゃ」という意味の重要性が増しました。 今、うちの子はとても元気で、「この子を見ている限り、21世紀も大丈夫!」という気になってしまうほどですが、ほんとうに、この子の元気をなくすような事があってはならないのです。

 

 そういう目標に向かってのラ・ネージュの具体的な活動予定は、「まず、できることから」、ということで、

1.ハッピーな気持ちになるためにはまず和めることが必要なので、1回サロンには和めるお茶を用意した喫茶部門、和めるグッズ販売部門を設けます。

2.おいしいものを食べることもハッピーな気持ちになることに繋がりますので、それと、国際理解の一挙両得を狙った「ルーマニアン・ディナー・ナイト」「ルーマニア料理講習会」を開催します。

3:ふだんなじみのない国や、知っている国の意外な「いい」「面白い」面を伝えるグッズを販売します。

4:外国の文化を知ることは日本について考えさせられることにもなります。

 今、組立式の茶室を製作中ですが、畳を板に替えれば舞台にもなる予定のそこでは、「茶道」「香道」の講習会や、和めるための、また、20世紀末の今にしか出来ない、お茶席、香席を設けたり、日本の伝統芸能のパフォーマンス、香園などを通して、また、その茶室抜きでの2階の空間では、あらゆる展示を通して「日本とは何か」「私とは何か」ということを考える場を創ってゆきたいと思っています。

5:こういった志を理解していただける方とネットワークを広げるため、「クラブ La Neige」を発足させ、ニュースレターを通してコミュニケーションを深め、また、その会員サロンとして、お酒が飲める場も設けます。

6・金崎先生がこのラ・ネージュの為にデザインされた家具は、「普遍的な美意識にも耐えるように」というコンセプトのもと制作されました。美しい生活環境、使い心地のいい家具は、人の心を豊かにさせますし、それが自分の好みに合わせて、色、素材が選べるということになると、あなたの美意識を貫くことが出来、部屋は調和を増すはずです。自分の美意識が貫けると、他人のそうしたいと思う気持ちにも寛容になれるはず。そういった観点から、あなたの好みにアレンジした金崎先生デザインの家具を販売していきます。

以上、6つのポイントを出発点として、ラ・ネージュはスタートします。

 21世紀が始まる2001年までの7年間は、花婿とここ、“ラ・ネージュ”をステージとして頑張っていきたいと思います。その後、ここは私達の住処となり、ステージはもっと広がりを見せるのかどうか・・等々、ラ・ネージュの未来はすべてあなたがこれを気に入って、たのしんでいただけるかどうか、あなたに育てていただけるかどうかにかかっているのです。

 まずは、ここを見て、これを読んで、あなたの声をお聞かせください。

 

  

 

  

 

 

 

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